Innami Synthesize Planning

印南総合計画

「写しUTSUSHIの文化とオリジナリティ」
 —赤木明登氏へのインタビュー その2

(A=Akito Akagi 赤木明登, I=Hiroshi Innami 印南比呂志)

I. 作法もそうだし、時間の感覚もそうだし、段取りもそうだし、動きもそうだと感じます。「キレ」という言葉をよく言いますよね。例えば建築家の世界もそうですけども村野藤吾さんという建築家はスケッチ描く時にたくさんの線を描くのです。線をいっぱい描いて、輪郭がわからないくらい描くのですが、その100本くらい描いている線の中から、弟子は1本の線を探し出す作業をして、それで一つの平面図を作り出すっていう。必ずキレのいい線が1本あるのです。

A. そこには根拠はないのですね。説明はできないのですが、でも必ずベストの線はある。木地は別の職人の手によって作っているわけです。僕が「こんな形」って、提案をするのですが、その二人の間には図面がないのです。特にお椀なんか断面図を描いて伝えても、イメージ通りのものには全然ならないですね。コミュニケーションの手段は最初数字なのです。お椀だったら口が4寸2分で、高台径が1寸2分で高台の高さが7分と言ったらだいだい職人さんはそれでわかる。それを、見本挽きをする時に、職人さんが挽いている横で「ここの腰の感じは、これは20代の女の子のお尻の形だけど、僕がイメージしてるいのは40歳くらいの形です」というようなやり取りをしながら。20代の女の子のお尻の形も美しいけれども40歳の女性のお尻の美しさもあるわけですよ。40歳の女性のお尻の形の美しさを視てみたい、みたいな。そういう下世話な話をしながらコミュニケーションを取っていく。木地っていうのは、削っていくことはできるけれども足していくことはできない。だから、ここだというのを見極めないと、行き過ぎてしまうと、またやり直さないといけない。だからとても厳しい世界なのですが、コミュニケーション取りながらやっていくと、二人とも顔見合わせて「これだ」という線が必ず出てくるのです。それをずっと追求していかないと、やっぱり形は衰えるのです。
 反対にデザイナーに聞いてみたいのです。ある時、輪島の職人さんのところに東京のデザイナーから図面が送られて来のです。コンピューターで描いた断面図。それ通りのものは作れるわけですけど僕なんかから見たらとても機械で作ったような硬い形でOKになってしまうのです。そこでさらに踏み込んだニュアンスを、デザイナーとして追求していくっていうことは重要だと思うのですが、なかなか難しい。

I. 先ほど言われた顔見合わせて「これだよね」というのは、作り手と、デザイナーや設計者、プロデューサーたちとの阿吽の呼吸というのが実際はあるはずです。それが、例えば漆の世界のように分業の世界に、職人たちの一つの組織化した中であうんの呼吸で作り上げていくものに対して、見積もりで入札して、安くて速いところでやっていく世界っていうのが普通のデザインの世界ですね。デザインというのは、複製技術によっていかにたくさん効率よく安く作ってみなさまに提供するっていう民主主義的なところからデザインという概念が生まれてきましたから、そうなった時にいわゆるそのあうんの呼吸みたいな部分はあまり大切にされて来なかったのかもしれません。

A. ほとんどの世の中はその悪しきデザイン的な世界もしくはマニュアル化した世界で動いているわけじゃないですか。それが経済の大半を占めているわけでしょ。その中で、すごくマイナーな我々の伝統的なものつくりの世界は滅びて来ていく。

I. いや、マイナーっていうのは言い方としては単なる数字の感覚であって、価値としてはマイナーではない世界のはずです。例えば「オタク」という世界が、ずっとマイナーだと思っていたのが、実はオタクの世界を紐解いてみたら、数でいえば圧倒的にメジャーなのです。オタクの世界の年間の市場規模はすごいですから。しかし未だにみなさんはマイナーだと思っている。そういうマイナーということばの意味自体が今はもうなくなってきている。
 また、マイナーという言葉に関連して、「弱い」ってことばは、日本人好きじゃないですか。判官贔屓もあって。

A. 弱さよりも儚さの方。僕は輪島の中では輪島の伝統を壊したみたいな言われ方をしているのですが、そのようにいっている人の伝統というのは、近代の輪島の伝統なのです。輪島塗のイメージというのは、多分ほとんどの方は金ぴかつるつるの、蒔絵の描いた高級漆器のイメージがあると思うのですが、それは近代以降に加賀とか京都の加飾の技術が輪島の中に流れ込んでそうなっただけで、それ以前の輪島っていうのは、無地の本当に実用的な器を作っていた産地なのです。中世からそれは続いているのですが、輪島の地層の中にある古いものを掘り起こして、それに一番近いものを僕は作っていくつもりなので、保守本流だと僕は思っているのです。

I. 私は京都とか奈良とかあんまり好きじゃないのです。実は私が若い頃留学したベネチアの大学の学長だったカルロ・スカルパは、仙台で亡くなられたんです。日本文化を調査しに来日された時に、東北の仙台のお寺の階段で足を踏み外して怪我が元で現地で亡くなられたのです。彼は「奥の細道」が日本文化のポイントだということを意識していたのではないかと。京都には興味ない。

A. 「俳句」という雑誌があって、その中で、中沢新一さんと小澤實さんという俳人の方の対談が出ていて、西行の跡を辿って芭蕉が東北を回っているのですが、東北には西日本の支配的文化が及んでいない、日本文化の地層がある。それを追い求めていたのが西行と芭蕉だと書いてありますね。

I. やはり唐様、それと朝鮮と含めた中で、例えば京都の平安京、平城京の頃、その頃の住人の大半は外国人だったって言われていますね。そういう国際的な都市を中心として日本が醸成していったと思うのですが、そういうものと日本のオリジナリティっていうものとの違いって何だろうっていうところから、風水でできた京都の碁盤の目よりも、例えば東北、縄文というものを、とても気にしていたイタリア人だったわけですね。

A. 漆をやっているとやはり、つきあたるのは縄文なのです。

I. 縄文というのは「プリミティブ」っていうことばで訳されることありますよね。もう一つ面白いのは、漆は海外では「JAPAN」と訳されています。ただ海外行った時、日本の漆をいくら説明してもわからなくて、「ラッカーだろ」と。

A. 僕はそこに「オーガニック」をつけて「オーガニック・ラッカー」って言っている。私はラック・マイスターですからね。

I. そう訳されるのですか。塗師は。マリー・アントワネットのその所蔵から輪島の漆器も見つかっていますよね。あの頃の技術をね、今再現しようとした時にできないと言われているようですが。

A. 漆の技術のピークは、多分高台寺蒔絵の室町とかあのあたりで、あとは衰える一方ですから、現在の技術ではできないと思います。

I. 先ほども少しお話ししましたけど武者小路千家の官休庵。武者小路ということばは、あれは地名ですよね。武者、そして小路ですよね。そういう武芸をやっている人たちは労働者だった。そういう人たちが住んでいる小路ですよね。それの名前をつけた官休庵ってことが僕はとても庶民的な意味合いを感じたのです。そして塗師だったわけですよね。僕は赤木さんがお茶で官休庵をやられていること、そして漆の日常使いというストーリーが、今日いろいろお聞きしている中で、漆の世界が少しわかってきました。

A. 一番いい場所がそれぞれあるってことで。陶器は陶器で適した居場所があります。

I. そうですね。今日のお話で漆は陶器やガラスよりも弱い弱いって言われているのですが、物理的にはそうかもしれませんが、人間との付き合いの中ではとても強い結びつきがある。

A. ガラスや陶器は割れたらその一生はほとんど終わる。東日本大震災が起きた後にどんなに苦労したかって言うと、漆器の場合、たくさんの修理がくるわけですよ。被災地の陶芸家の友人やガラス作家たちは、どんどん新しく作り直していたのですが、漆器は修理の依頼がくるのです。漆というのはそういう風に、粉々になっても直せるのです。

I. 木地師さんを見ていると、まず10年くらい乾燥した木を荒削りし、また燻煙乾燥しますよね、それでまた削ってまた乾燥させて、その工程踏んでいきますよね、あれは強くするのか暴れないようにするのか、それともその木自体をとにかく、いわゆる有機物を無機物にしていこうとしているのか、あの工程は何のためですか。

A. 基本的には狂いを止めようとしているのです。

I. 狂いを止めるだけなのですか。例えば素材が強くなるとか。そういうこともあるのですか。

A. あまり関係ないと思います。日本人は基本的に木の器でご飯食べて来ましたけど、昔から庶民はほとんど何も塗ってないお椀で食べているんですね。ああいうものは腐って、捨てられて新しいものを使う、割り箸と一緒の感覚なので、残ってないですね。基本的には消えて無くなるものだった。それで漆を塗ることによって初めて強いものになったのではないかなと思うのです。

I. デザイナーが描いてきた図面を職人さんが、よく「作りづらいんだよな〜」って言っていますよね。

A. 形っていうのは実は「用の美」って言うけれども、「用」から来たものの方が少ないのです。器の形っていうのはどこから来ているかっていうと、良いものに対する憧れから来ている。より上層階級が使っているいいものを写して自分もそれに近づきたいって欲望からこの形になっている。しかし、ただそれは欲望だけではなくって、天皇家の食事儀礼というのは何のためにあるかというと、祭祀なんです。その年に取れた、要するに神様からいただいた食べ物を、一度盛って、神様に捧げるための器なのです。それが食事をするっていうことなのです。高台が高いお椀っていうのは、実はこれは、両手で捧げ持って、神様に上げるための形なのです。

I. では手の厚みがここに必要なのですね。

A. そうです。それで、それを下げて来て、それをお下がりで、おこぼれでもらうというのが、食事をするということの儀礼を、天皇家は代々やっていて、そのための形なのです。だから、高台が付いているのです。

I. いただく、お裾分けする、それから恵まれるっていう、その形なのですね。

A. だから千年続いてきたのです。

I. 今、いろんなことに納得できたのは、最初に赤木さんが言われたDNAの「写し」ですね。写しの世界でずっと続いてきたわけですね。

A. 素材が変わっても、形が変わらないってところが重要だと思うのです。それは代を重ねるということは、「写し」なのです。そうでないと、その間で、変わったことやってしまったら、次が続かないのです。

I. 口承伝承という写しの手段はどうですか。口承伝承は言ったもの勝ちみたいなところありますよね。しかしその言ったもの勝ちっていうのは、逆に言えば、それを写していくための説得力っていうのをそこで作り出さないと、リレーができないのですよ。リレーしていくための説得力をその年代その年代で考えているのだと思うのです。

A. 漆だけでなくて例えば青銅器があって、青磁が焼けるようになった時に、最初青銅器と全く同じものを青磁で作っていますよね。そういう風にして形が繋がってきている。例えばオランダのデルフトが16世紀くらいに、中国の磁器が焼けなくて、白釉で焼けるようになった時に、何を作るかというと、2系統あるのですね。そのものを見ると。ヨーロッパはまたパターンがちょっと違うのですけれど、それ以前にあったヨーロッパの皿を、白い皿で焼くのですが、2系統あって一つは錫系の、金属の形をデルフトにしたものと、それ以前にあった木のお皿をデルフトの形にした2系統があるのです。それはやっぱり新しい技術ができると、前にあるものを写して作ったっていう。マヨルカもそうですね。マヨルカのほとんどのものは金属のお皿の写しですね。

I. マイセンは、有田ですよね。昔は国境を越えた交流やモノの流通がかなりあって、あの美意識とか形の世界も通じていたわけです。例えば利休の時代1500年代の時に、利休が作った二畳の茶室、待庵の寸法と、同じことをレオナルド・ダ・ヴィンチが、ウィトルウィウスの人体寸法は、ほとんど同じ2畳ですね。その空間作りが、レオナルド・ダ・ヴィンチと利休が、同じ時に何の交流もないのに、地球の反対側でやっているという。

A. あの時代、桃山とダ・ヴィンチの時代。同じことをやっていて、その時代の作っているものはとても魅力的です。ヨーロッパの工芸品の一番美しいのは中世ですよね。僕のカトラリーのコレクションは15世紀16世紀のヨーロッパのものです。しかし今は価値観が変わっていて、とても時代が動いている。クラフトとか、素人との境界がなくなっている。桃山の次くらいに変わっていくのじゃないかと思っています。その中で出てくる面白いものもあるし、滅んで行くものもあるのですが、基本的に僕は、漆は滅ぶと思っています。

I. しかし滅び方は美しく。

A. 器の世界も同じですけど、着物も個人で、面白いものを作っている人が、少しずつ出てきて、希望はあるように見えながら、何か僕は不安なのです。ルネッサンスって言うか、僕の場合は基本的には中世からの時代に架けてのルネッサンスだと思っています。

I. 壊れたものをもう1回再生するっていった時に、再生はルネッサンスってことばなのですが、その時に価値が上がるという現象があります。例えば金接ぎの美意識もそう考えられませんか。これは雲の形で欠けているから雲の形にしましょう。このひびがあるから枝の形にしましょう、という形で、新しいものが生まれる。元通りにするのではなくて、新しいものが生まれるっていうことが、お直しじゃないのかなという気がします。自分だけの記憶のあるものになることで、オリジナルという意味が生まれるのではないですか。

A. 僕はオリジナリティってものを信用してないので、オリジナリティがない方がいいんじゃないかなって思うのです。僕は基本的には古いものを写して作っていて、自分のオリジナリティよりも、写している元々の美しさを引き出して伝えたいっていうだけですよね。で、それが誰かに引き継がれればいいなって思う。僕の作るものに対してはそうなのです。

I. 「写し」ということばにとても共感と理解を感じていますが、オリジナルは徹底的に否定ですね。

A. それが職人的な仕事だと思うのです。だから今の作家性っていうのは、個人が起源。オリジナリティっていうのは起源ってことですね。その作品の起源が、個人であるっていうのは、僕はある意味幻想だと思っていて、僕は自分に起源がなくても、いい気がするのです。
 漆器には1万年の歴史があります。近年、誰もが形を吟味しなくなり、形が崩れてきたと感じています。近代デザインが主流となるなかで、機能や用途を重要視して、が持っている歴史や意味を切り捨ててきました。しかし、器の本質は精神性や美しさや憧れにあると思います。そして、そういうものは器に残っています。同じ形のなかで、髪の毛一本分のラインを動かすだけで、器の形は無限に変化していきます。僕は、古作を写しながら、その形の意味や由来を考え、一番いい形を突き詰めていくことを大切にしています。色や形を延々と追求していく。僕が器のDNAをつかむことで、過去から現在までがつながり、未来につなげていけると考えています。

I. 自分が今の21世紀の中で、写しをリレーしていくか、一つのバトンを持ったというくらいで、僕が作ったものでさえ、僕が作ったものじゃなくてもいい、という感じですか。茶道具っていうのは、用と美がありますよね。そうした時に機能があるものと、見て楽しむものがあったとしますよね。そうした時に見て楽しむ世界の中に一つは知識や教養が必ずあって、知識というのは例えば、障子を貼っていく時に、ラフにやっていくことで紙が重なっていって光の透過にムラが生じる。外からの光で景色を生んでいくみたいなところがあって、そこには用の美の中では茶道具の美の世界で眺めて楽むみたいなところがあった時に、その金接ぎしたい茶碗を壊れたものを、儚いものをもう1回生まれ変わらせようという、そういう精神みたいなものに価値を見いだしているのではないかと考えたのですが。

A. 僕はお茶の世界で漆の位置というのは、また陶芸と違う位置にあると思うのです。お茶の世界では茶碗とか、陶芸が主役のように思われていますけど、実は利休はそうは思ってなかったように思います。僕は、お茶道具は基本的には利休形道具っていうか、禅は要するに懐石家具を中心に作っていて、茶事をする人は少ないし、懐石家具一式揃える人もほとんどいないので、茶事をやってもすごい茶碗は出てくるけど、懐石道具はあまり誰も注目しない。注目のされなさがちょうどいいように思うのです。その控えめで静かで、陶芸的な押し出しの強い魅力がない、漆の世界が僕はちょうど良くて好きなのです。利休はその唐物のお茶の中から、盛阿弥の棗をぽんと茶室に置いた時に、初めてお茶が日本のお茶になったと思うのです。

I. 漆の役目。例えば利休のあとに、なんかゲテモノとかそういうことばの中で、織部、遠州と続いてくる世界があり、彼らの漫画的な世界くらいのお遊びで、1個の器でお城が買えるみたいな、そういう時代でした。あの時代の美意識、価値観みたいなものが、未だに日本の中に残っているのではないかなって気がするのですが。

A. それは魅力的でもありつまらなくもある。最初の話に戻ると、要するに、茶道とか茶道具の世界ではヒエラルキーが決まっていて、これがいいっていうものが全部決まっているわけです。井戸茶碗だったら、例えば高台に釉がけがないとこれは井戸茶碗じゃない、とか、熊川だったら反対に高台に釉がけがあったら熊川じゃないとか。ちょっとずれると価値観から外れたものになって、美しさも認められない。それはとても不自由な世界ですよね。民藝もそうで、柳宗理はある程度自由で発見したのに、彼が選んだものに縛られてしまうと、自由さがなくなってしまう。一番肝心なのは、振れ幅だと思うのです。僕もお茶の道具に好き嫌いがあるのですが、とてもジャンクなものでも好きなものがあって、行ったり来たりしているのがいい状態じゃないのかという感じがしています。その振れ幅が大きければ大きいほどいいのではないかと思います。しかし古道具の世界だと本当に茶道具の人たちを、本当にユーザーの方たちは茶道具の世界に縛られてその世界しか見えなくなって、民藝の人たちも、日本民藝協会の人たちは民藝のことしか見ていない気がします。振れ幅をもっと大きくして、針金のちょっと錆びたやつもきれいだけど、でも利休形のこの真の手桶の水差しも美しいと、その両方がある感じがいいと思うのです。

I. 民藝のもともとの視点だったはずのアノニマスな世界の、用の美と言ってながら、みんな人間国宝になってしまった。

A. 民藝理論の問題点は、器は用の美でできてない。庶民のものでさえ、天皇家の使っていたものに憧れて。

I. 現在日本は国策としてジャパンブランドというプライドに多くの税金を使って日本の伝統工芸を海外に自慢しに行っています。さまざまな異文化、民族、宗教、食文化も違う中でそれらの道具や、その伝統と言われているものが本当にそれらの価値を理解してもらっているのか疑問なのです。多分、昔の方が、交流が多く理解し合っていたのではないでしょうか。いま、日本の中でも47都道府県が地域ブランドということを標榜して江戸時代の藩制度のように競争しまくっていますよね。そういう状況と似たようなことを、インターナショナルにやり始めているのではないでしょうか。
 私は昔留学した時に、最初にお土産に風鈴をイタリアに持って行った。風鈴を夏場掲げていたら同居人に「やかましい」って言われたのです。それで説明したのです。風鈴の意味を。「音が美しい」とは言わなかったのです。音が鳴るっていうことは、風があるってことですよね。音が鳴っているということは、今風がふいているということだから、気持ちは涼しく感じるじゃないかということを説明したら、「理屈でわかった」って言われたのです。向こうの人たちが。理屈で、ああそうか、この音から風を連想して涼しく感じるってことが、この風鈴の重要なことなのね、とそれで終わりなのですね。多分そういう説明で日本の伝統の物をわかりやすく説明していくことはできるかもしれないけれど、本質までわかるかどうかは、僕はちょっと疑問ですね。

A. はい、僕は基本的に内向き。日本の工芸品をアートとして世界に売る、紹介をしたいっていう発想に対しては、僕はあんまり興味がなくて、基本的に漆の器っていうのは日本人の生活に根付いたものだからその中で使われてこそ意味があるので、全く別の形で海外に紹介されたとしてもまあ珍しい飾りものになるくらいで意味はないと思っています。

(2021年DOMUS KOREA 11号掲載)

←前のページへ to the next page←   ↑to the top of this page↑