H. ルネッサンスの時代は、一種のヒロイズム的に作品と作家が全面に出て、有名無名の差があったように感じます。バロックの時代というのは、職業観が技術的、職人的、そして社会的に成熟していたような気がします。シチリアでの建築家たちは、アノニマスな姿勢でしっかりとした仕事していた痕跡が残っていますし、だからこそそれらを手がけた建築家や芸術家が今評価されているのではないでしょうか。それこそがManieraと言える気がしますが。
M. ローマをバロック化した、Francesco Borromini(1599-1667)や、Gian Lorenzo Bernini(1598-1680)、Carlo Fontana(1638-1714)などのバロックとシチリアのバロックは分けて考えないといけないでしょう。シチリアにバロックをもたらし、シチリアの文化に溶け込ませた当時のシチリアの建築家たちは、ローマのバロックを知っていたはずです。素材や材料が豊かで、ローマの素材よりも石などは柔らかく加工しやすく、装飾などに加工することは容易でした。しかしその代わり衰えやすい弱点もありました。
シチリアのバロック建築は内と外の関係を前提とする社会に対応していました。貴族たちは、お祭りで行進する民衆をテラスで眺めることなどが、シチリアの文学で描かれています。例えばフィレンツェの建物にはほとんどテラスはありません。Plazzo Struzzi、Plazzo Ruscellariにもありません。Plazzo Vecchioには小さいテラスがひとつだけありますが。冬の寒い気候もその原因で、屋上テラスなどは、屋根を支える柱のあるテラスもありましたが、それはメディチ家の子供達が天気の悪い時でも遊べる場所だったのでしょう。シチリアでは一年中外で生活することができます。例えばPozzalloの町の特徴は、道が狭く路地が多く、建物の1階が地面よりも少し高くなっており、全ての家にテラスがあります。そのテラスが隣の家と繋がって、リニアに道路の流れに沿っています。夜になると住人たちはそのテラスで佇んで、みんなで会話しています。いわゆる広場のような機能を持っています。ModicaやRagusaの街は、バロック時代になってからテラスが増え、装飾の面でも細かく豊かな表現になっていきました。テラスの鉄の欄干の隙間から外の風景を眺める習慣は、Pirandelloの小説によく描かれたシーンです。このような風俗が生まれる要因もバロック建築から生まれています。
H. シチリアで外してならないのはワイン文化です。ギリシア、アラブ、スペイン、バイキングなどもシチリアの豊かな大地に葡萄の樹を植えたことで、多くの品種の葡萄があります。耕作の方法や、農耕文化に根ざした生き方も感じられます。エコロジストやベジタリアン、ビーガンなど食に対する多様な思考、思想的な流行がありますが、あなたは食文化についてはどのように考えますか。
M. 私はこれまでの人生の中で、時代ごとに食事のスタイルは変化してきました。最初に家族との食事があります。それはトスカーナの伝統料理でした。その後、外食が多くなり、多様な文化の料理を食べるようになりました。そしてヌーベルキュイジーヌの流行などがありクリエイティブなアート性に注目した時期もありました。しかし歳をとってからは、食への重要性がどんどん薄れていきました。立ちっぱなしで食べることもしばしばで、食卓も使わずに簡素なものを食べることが多くなりました。玄米、パスタ、豆、などをよく食べ、肉類は鶏肉をたまに食べています。最近の私の日常生活の中では食に対する重要度はかなり低く、お腹が空いたから食べないといけない。という強制的な感覚なのです。若い頃は、友人を誘って街の有名なレストランに通ったものです。しかし、食文化のそれぞれルールや、環境問題、健康問題など多くの要因に対して疲れてしまったのです。昔はシチリアのこの辺りの農民は豚の血を使ったソーセージSanguinaccioという料理などをよく作っていたそうですが、その伝統も今はほとんど廃れています。現在は10分程で、立ったままで食事を済ませてしまうような毎日です。
H. あなたの人生は旅と共にあったような気がします。様々な都市でのプロジェクトがあり、多くの大学で教鞭をとってきました。建築を目的としない、仕事以外での目的で旅をすることはありましたか。
M. これまで地球を何周しただろう。フィレンツェに住んでいたのは、交通の拠点としてイタリアの中心だったからです。イタリア中の現場や大学に通うのとても便利でした。しかし、ドイツのベルリンの大学に通うにはピサからジェノバ、フランクフルトを経由して3回飛行機を乗り換えなければなりませんでした。車で長距離を移動することも多く、そのために、自分自身のステイタス的なプライドを持っていた時期は、大きなジャガーを3台も所有していました。1日に900kmも走ることもありました。仕事のためではありましたが、移動を楽しんでいた時期でした。しかし今は、歳もとってシチリア島に幽閉されています。また、私は現代写真が好きでデュッセルドルフ派の写真集を多く持っています。写真を撮影するための旅も多くしました。写真家Gabriele Basilico(1944-2013)のように世界を回って、変化する都市を撮影し、建築、工場、石油タンクなど、まさに地理学や社会学的な視点が、論文よりも写真の方が表現できていると感じました。
H. これまで、あなたは多くの大学で、多くの学生を育ててきました。そして事務所でもスタッフを育ててきました。建築界における徒弟制や、技術革新や時代の移り変りによって生まれてくる新たな建築家像について考えをお聞かせください。
M. 私には弟子はいません。大学で教えた学生の中には成功した者も多くいます。その多くは、アメリカ、フランス、ドイツや日本など海外で活躍しています。事務所のスタッフでも、磯崎新のイタリア事務所の代表をしている者もいます。しかし彼らを弟子と呼んではいません。彼らは私の教えや私のスタイルから学んだわけではなく、彼らの自立した能力と、時代に合わせたマーケットの中で成功しているのです。
もともと私はアナログ人間で、創造プロセスも頭の中でも鉛筆で描いているような人間です。難解なピアノを弾きこなせても、コンピュータを操ることはできません。幸いにも事務所では息子がコンピュータの技術に長けており、またスタッフもCG技術がかなり高く、私は営業担当をしているようなものです。大学で教えることを辞めた今は、新しいものを創造するという姿勢も冷めています。それは、革新的な技術で新しい考え方が次々と、それも早く生まれてくるため、その速度と流れについていくことが不可能となってしまったからです。
私の主とする仕事の修復技術の場合、スピードを上げて作業することはできません。効率よく早さで質を上げることもできません。経済をコントロールして、ルールに従うものが社会的な権力を有していくのです。例えば、Giovanni Carbonara(1942-)という修復技術の百科事典を作った有名な建築歴史家で修復の理論家がいますが、彼が今、ローマの建築修復の世界のリーダーとなっています。小説家のTom Wolfe(1930-2018)は言っています。あるグループに参加するためにはそのルールに従うだろう。それはいくら馬鹿らしいルールであっても。迷信のようなルール従い、社会に呑み込まれ、その迷信を守っていくのです。流行も同様で、出版社の意に沿った作品がグループ化され、その影響下の流れがまるで弟子と先生の関係のように思われています。
H. 70年代にあなたが社会に出て、後に役所で働き始めた時期の頃を少し話していただけますか。当時は進歩的な建築家が多くいて、アバンギャルドな雰囲気があったと思います。そして、役所を退職した後、フィレンツェで独立して活躍するようになった経緯についてもお話しください。
M. ピサでは通勤生活でした。1974年から市役所で働くようになりましたが、それまでの4年間はひとりだったため、あまり多くの仕事はしていませんでした。市役所に入ってからは、多くのプロジェクトに関わるようになったため、新進気鋭の建築家たちとの関わりも増えるようになりました。Francesco dal Coが主催したシンポジウムなどで多くの建築家たちに会うことがありました。彼らからは、公務員である私は当たり前のように仕事があるが、私たちには無いと言われました。当時のピサにはそれなりに仕事はありました。集合住宅や、旧市街の歴史的建物の修復、そして学校の計画も4つほどやりました。しかし、給料は安く、妻のGabriellaが修復などの設計プロジェクトをもらってどうにか生活していました。私も仕事が終わってから手伝いに行っていました。当時は左派の政治家が役所に無資格の能力のない職員をコネで雇わせて、私の建築担当の部署にも多く入ってきました。やる気も、能力もない人たちでした。その後左派から右派の政治に変化していき、公務の中でも、mani pulite(リベート)のような私的な収入が入るようなモラルのない時代になっていきました。そのような状況は世界中であったように思います。そのような混乱が建築や都市計画の能力の低下を招いていきました。そんな環境から出ることも考え、1990年に役所を辞めることにしたのです。
1997年からフィレンツェに事務所を構えました。農民の家系出身の私にはコネもなく、地方から出てフィレンツェの建築界で仕事をしていく必要があったのです。大学で教えながら、インテリアの仕事や、医者などのクライアントの住宅などいい仕事が入ってきました。当時は私の事務所がトスカーナ州で一番設計料が高い建築事務所だと言われたこともありました。社会の中で急に建築家の数が増えてきて、作家的な建築家だけでなく役所の建築課で働きたいという意識の高い若者も増えてきました。ピサ市役所などは、5人の募集に数千人もの応募がありました。私が働いていた時は、担当は私ひとりでしたが、今は2〜30人はいます。フィレンツェ市には50人はいます。公共の建築を管理担当する公務員建築家になるための競争は激しいのです。現在は担当する仕事の量でボーナスが追加されるので、アルバイト的に外の仕事をする者は少なくなっています。しかし、公共のプロジェクトがコンペや入札になることで、政治的な圧力によって質の低いものが出来つつありました。例えば、プーリア州のバリ市であったコンペでは、戦時中に損傷を受けた修道院の修復がテーマだったのですが、修復には程遠いものでした。そのような案がコンペに勝つという虚しい社会状況は、その後、政治権力だけなく、経済的な要因で、益々質の悪い安い仕事ばかり産んでいくようになりました。
それでも私の事務所には2008年頃まではかなり仕事はありました。左派でも右派でもなく、貴族的な関わりもない私の建築作品を見て頼んでくるクライアントがいました。当時トリノにあった巨大な船のエンジン工場をリノベーションして商業施設にする大規模プロジェクトが進んでいました。それだけのプロジェクトをこなせるだけの事務所規模とスタッフの能力はありました。そのほかにも多くのコンペに勝利していました。しかしほとんどのプロジェクトが経済不況により頓挫することになり、事務所を閉じてシチリアに移住することとなりました。
H. ムッソリーニに時代にはSabaudiaやサルディニア島のArboreaなどマラリアに感染した湿地帯を再生して多くの新都市が移住のために作られました。それは自然環境問題と人口増加問題の両者を解決するための積極的な都市開発だったと思います。ムッソリーニのプロパンガンダと言ってしまえば終わりですが。それよりも前には、Crespi d'Addaのように労働者の理想郷を創造しようと起業家が私財を投げ打った都市が生まれています。人間生活の中で、職業、生活、街というものの繋がり、大切さについてはどう思われますか。
M. 27歳まではピサの城壁の外にあるSaint Gobainの社宅に住んでいました。工場があり、労働者の地区とサラリーマンの地区、そして管理職者地区と分かれていました。身分と職業によってヒエラルキーによって区画された街でした。会社の福利的な考え方であったわけですが、それでも工場の溶鉱炉で働く人たちの生活は犬並みの過酷な環境だったと記憶しています。鉱山で働くのと同様に耳が遠くなったり、肺の病気になったりしていました。そのため管理職であった優しい私の父も同じ労働者だったのですが、現場の労働者たちから憎まれてしまっていたようです。
会社の保障で病院も無料でした。国民健康保険がない時代に、企業の厚生として大企業の場合は恵まれていました。FIAT、Olivetti、Marzottoなどのように市場を独占していた大企業にはこのような力がありました。
労働組合などの左派の戦いがあったことはAntonio Gramsciの著書などで知ることが出来ます。推薦人が探せない多くの人たちは、教会の神父らの推薦でどうにか企業で雇われることが出来ていました。そして共産党に入会し、その後社会党と連立になっても同様に党組織の駒となっていました。党のスキャンダルやmani pulite(リベート)が横行するようになり、党の仲間だけに仕事を回すというような組織となっていったのです。当時の作家たちが著述したものがこの時代の社会を明確に表しています。異なる政治が始まっても、全てを払拭することは不可能だと。私が40年間一緒に働いた左官職人は月に1000ユーロ程度の賃金で生活していました。熱い夏も、凍える冬も同様に家畜のように働いていました。どうやって家族に、子供に本を買うことが出来たのだろうか。
今、私も年金生活者になり、昔のように本を買うことはできなくなりました。近代建築によってできた社会は、権力による社会そのものでした。ドバイや上海の摩天楼は誰のために立てられているのか。それらは全て経済的権力に繋がっているのです。
私が市役所で勤めていた時、墓地や低所得者用の住宅や、学校の計画を行いました。そして、そんな階級を意識しないリベラルな施設として、全ての階級住民が通う学校や公共施設を計画したのですが、左派の議員や職員が同意しなくなったのです。また、役所側は、弱者対応の住宅や施設の建設に対する予算を削減するようになり、彼らに供出する予算がもったいないと漏らすようになり、そんな状況下の環境に疲弊して結局役所を辞めたということが本音です。現在、議員のMatteo Salvini(1973-)によって策定された税金法によって私たちは助けられているように感じていますが、実は、ムッソリーニの頃のファシズムの時代に近いことに不安を抱いています。
H. さて、少し話題を変えて、あなたはよくスケッチを描きますが、同様に写真もよく撮っています。あなたの眼差しは、スケッチブックや、カメラのレンズからどのように見えているのでしょうか。最終的にプレゼンテーションとして描く絵や図面が持っている価値やその目的についてお伺いします。
M. 写真の興味以外は、ものの客観性に基づいています。1800年代の写真は、撮影者の眼差しがとても客観的で、作為性や恣意的な感じがありません。一つの記録として、そのものの現実が写し出されています。1800年代のパリの写真や、有名人のポートレートは特に好きです。ショパンのポートレートを見た感動は、ショパンを弾けた時の感動よりも、彼の音楽を感じることができました。バッハの場合は、ポートレート写真が存在していないので、現実としての彼の音楽と比較することはできないのです。
写真かスケッチかどうかを比較することはできませんが、スケッチの方が商売的に有益なことは確かです。架空の現実や作家のオリジナリティをプレゼンできる手段でもあります。頭の中で空想として図柄で実現することが出来ます。私はフルスケールで考えることが習慣になっています。それは実現することが前提だからです。ローマ学派のFranco Prini(1941-)や、Paolo Portoghesi(1931-)らのように、建てることが目的ではなく、スケッチ作品が目的となった建築家たちもいます。
H. 描写力による建築家の能力と、現実の建築との関係についてあなたは、どのように考えますか。同時代の建築家たちの動向を傍でつぶさに見てこられたあなたの目にはどのように映ったのでしょうか。
M. ラトビア出身の建築家であるMassimiliano Fuksas(1944-)を知っていると思いますが、彼が設計したPlazzo dei Congressiを見たことがありますか。その時のコンペでは私が次席だったのです。当時はFosterやRafael Vinoly(1944-)らが世界中でかなり質の高いガラス建築を手がけていました。しかしFuksasの仕事の質の低さに驚きました。彼は多くの言語によってコンセプトを表現できる能力はあります。スケッチと言語は同様にプレゼン要素としては重要な武器です。しかし、現実の空間、モノとコンセプトの遊離は考えないといけないと思います。
また、フィレンツェの学派で似たような建築家たちもいます。Giorgio Grassi(1935-)、Antonio Monestiroli(1940-2019)、Paolo Zermani(1958-)らが、建築のアイデンティティという学会を設立して、毎年12月にフィレンツェ大学で発表を行っています。今年で15回目になります。この学会に同調する建築家が多くいますが、発表においても推薦者がいないと登壇できないし、問答のない10分間だけの発表のみなのです。若い建築家を育て、導く意味で、このような学会を一つの学派として認めたくないのも事実です。学会の代表をしているZermaniはPoltoghesiの娘と結婚したことで、弱冠30歳でフィレンツェ大学の教授に就任します。彼に能力がなかったわけではありませんが、イタリア社会のmani pulite的な現実です。
皆がマエストロとしてプライドを持ってしまい、弟子に継承することがない社会になっています。オリジナルばかり追い求め、現実にはそれらを実現することが難しく、役所や政治の変化に翻弄され計画が頓挫することが常態化しているのが今のイタリアです。そんな現状の中で、イタリア建築を導いていく人が今はいない。Vitorio Gregotti(1927-2020)が最後だったかもしれない。権威も美意識も持っていたが傑作を残していない。そのために国の未来にルールを見出すことが出来なかった。90歳で事務所を閉じた。Giorgio Grassiは85歳で事務所を閉じた。Monestiroliはあまり精力的には活動しなかったが、彼の息子が、Grassiや私の建築思考を継承してくれている。
Sicilia Pozzalloにて8時間におよぶインタビュー
(2020年DOMUS KOREA 6号掲載)
Massimo Carmassi
1943年ピサ生まれ。1970年にフィレンツェの建築学部を卒業。1974年にピサ市の建築部門のディレクターを1990年まで担当する。1981年から1985年まで、ピサとその地区の建築協会の会長を務めHeinrich-Tessenow-Gesellschaft e.V.が授与したHeinrich Tessenow金メダルを受賞。フィレンツェのthe Accademia delle Arti del Disegno of Florenceの建築クラスおよびthe Accademia Nazionale di San Lucaの建築クラスのメンバーに任命される。International Bauakademie Berlinのメンバーであり、American Institute of Architectsの名誉フェローとなる。2015年には、ミラノ・トリエンナーレ財団からMedaglia d'oro all'architettura italianaを受賞。
彼の手がける分野は、修復、新しい建物、都市デザインを網羅している。
ベネチアのIUAV大学の建築および都市デザイン学部で教鞭をとり、その後、フェッラーラ、ジェノバ、トリノ、レッジョディカラブリアの建築学校、Accademia di Architettura di Mendrisio、Hochschule der Kunst of Berlin、ニューヨークのSyracuse Universityなど世界中の建築大学で教鞭を取ってきた。現在はシチリアに移住して建築の評論や講演を行なっている。彼の妻であるガブリエラGabriella Carmassi(1945-)も建築家であり、彼と共にこれまでのプロジェクトを協働している。
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