Innami Synthesize Planning

印南総合計画

「私の人生において、建築から学んだ現実の世界とは」
 —Massimo Carmassiとの対談 その1

(M=Massimo Carmassi, H=Hiroshi Innami)

M. 私は第二次世界大戦の真っ只中のイタリアで生まれました。ドイツに占領され、多くの男性はドイツに労働者として送られていきました。私の父は家族を連れてピサの山の中の小さな小屋に逃げ込んで隠れて生活していました。生まれて間もない私の髪の毛は金髪で、ドイツ人にとってはドイツ人の子供かと思われました。それは占領中には多くのイタリア人女性がドイツ人の子供を生んでいたからです。その後、山中から海のそばのmarina di pisaという町に引っ越しました。その記憶から海というものが私の人生の中で学びとして重要な存在となりました。
9歳からはピサの街中に移動しましたが、3〜4歳ころの幼い私の記憶の中には、海へ逃げ込んだ時の家族の絆を鮮明に覚えています。建築家になってから、海での生活、水浴についての小さな本を書いたりもしました。ピサでは戦争で破壊された地区に住んでいたので、破壊された町の風景は私のもうひとつの学びとして大切な都市の記憶です。ピサという町は、フランスのルイ14世が創立したガラス企業であるSaint Gobainによって町の産業が支えられていました。私の父はそのガラス工場の責任者だったのです。ヨーロッパでも最大級の工場だったので、そこで生産されるガラス素材は世界中に販売されていました。ガラスは私や家族にとって日常的な話題でした。父が帰宅すると食事をしながらいつも、ガラス生産の難しさ、工場でのトラブル、職人たちとの日々など、常に仕事に向き合う生活でした。
町の風景は、工場、煙突、煙が心象風景として残っていますが、父の働く工場の現場を見たのは一度だけでした。町の神父とイースターの祝福を兼ねて工場の見学した記憶があります。10m×30mの巨大なガラスの溶鉱炉を見て驚きと恐怖感に襲われました。穴の中からガラスが溶けた赤い液体がなんとも言えない恐ろしい音と共に噴出していました。
当時ピサの街に、このガラス会社によって建築家Melchiorre Bega(1898-1976)が設計した病院や幼稚園、Saverino Muratori(1919-1973)が設計した巨大な煉瓦の教会などが建てられていきました。戦後のピサの町の復興で建設された唯一の現代建築でした。
私の家族はガラス会社が所有する農地を借りて畑を営む家系でした。農民の家系でありながらも私の家族は音楽を好み、オペラなども嗜み、ピアノも勉強しました。そして町の権力者とのつながりも強かったのです。蔵や馬小屋なども所有していましたが、住んでいた家は農家のスタイルの家ではなかったのです。が、ガラス会社が建設するガラスを多用した建築物との様式の違いに衝撃を受けたものです。私たち家族が住んでいた家の小さな窓、薄いガラス。それに対して新しく建てられたビルは板ガラスで覆われていました。父は工場で特注製造された22mの板ガラスをミラノまで運んだことをよく自慢していました。ガラス素材が建築材料と見なされ始め、構造としてガラスの橋なども作られていきました。
ピサという地方都市で生活する若い私には、Mies van der Rohe(1886-1969)やLouis Henry Sullivan(1856-1924)が設計したアメリカの摩天楼が存在していることを知るすべもなかったのです。中学、高校と学んで行くことで、自分自身の住んでいる町が古い町だったということを知ることとなったのです。

H. これまでのお話で、戦中、戦後にあなたが経験してきた町、人、風景の記憶がリアルに感じることができました。当時のイタリアでは戦後復興の産業や文化が目まぐるしく変化していた時代だと思います。その中でも、例えば映画産業が先導した新たな潮流である、ネオレアレスモ運動によって、Roberto Rossellini(1906-1977)、Luchino Visconti(1906-1976)、Vittorio De Sica(1901-1974)らの映画人がイタリアの芸術、音楽、文化を庶民的な視点で現実を捉え、新たな美意識を模索していました。そんな最中でものづくりの創作活動や建築をリアルに感じて、教育を受けていた黎明期の状況をもう少し詳しく教えていただけますか。

M. 建築を始めたのは1962〜3年の頃で、フィレンツエの学校に通っていました。19、20歳の頃は高校で一番図面を描くのが上手で、当時描いた図面をまだ何百枚も持っています。デザインという分野からは少し離れた基礎科目でしたが、幼い頃から絵を描くことが好きで、建築図面はもちろん、写真からの模写や木炭デッサン、油絵や、ついにはペンキ塗りまで何でもやっていました。
もうひとつの趣味は、音楽であり、幼い頃からピアノを弾き始め、後に弾くことを諦めないといけない病にかかるまで続けていました。弾けなくなってそのピアノは売ってしまいました。幸いにも息子が音楽家になったので私の意思を継いでくれたのです。
この頃のピサの町には現代化の流れを感じることは出来なくて、いにしえの世界を生きていたと言わなければいけません。戦争で町の三分の一が破壊され、戦後建て替えられた建物はそれまでのものとは違っていました。子供の時過ごした石と煉瓦だけの建物とは全く別物でした。ピサに家族で引っ越した時、私たちの家はガラス会社が建てた建物でした。新しい素材を使い新しい空間での生活と、それまでの伝統的な空間での生活のふたつの記憶が私の建築に影響を与えているのかもしれません。
戦後の民衆は皆、映画が好きだった。もちろん私も映画館に通いました。しかし悲しいドラマばかり描くネオレアレスモの映画は私には辛かった思い出です。若者にとってはアメリカの豊かな社会が描き出すディズニーの映画の方が明るい未来への期待を持たせてくれたのかもしれません。ファンタジアなどはピアノの練習を始める前に見に行っていました。一種の幻だったのかもしれませんが、アメリカの生活をイメージしていました。アメリカのライフスタイル雑誌「epoca」を手に入れてアメリカ人の豊かな生活を羨望の眼差しで眺めていました。しかし大人になり、建築家になってアメリカの建築学校で教鞭をとるために渡米してその生活のリアルな現実を目の当たりにした時、それはとても不幸で不誠実な文化ではないかと思うようになりました。当時イタリアでは私は、アメリカ映画からイタリア・ネオレアレスモの巨匠Rosselliniの元に移ったIngrid Bergman(1915ー1982)や、Piero Paolo Pasolini(1922-1975)や、Mario Monicelli(1915-2010)の映画に遭遇していました。Federico Fellini(1920ー1993)のような傑出した映画監督が描く映画は、フィクションであってもリアルな現実を描き出しています。アメリカの映画で感じたことは、質の低いありふれた話を、監督の能力でリアルさを醸し出しているということでした。
私が教育を受けた戦後の教養は現代的なものではなく一種の古典的なものでした。学校では第一次世界大戦までの歴史しか学んでいなかったのです。第二次世界大戦についての多くの私見を知ることができるようになったのは、フランス文学の巨匠Louis-Ferdinand Celine(1894-1961)の小説を読んでからでした。フランス語は話せませんが、フランス文学がとても好きです。ドイツのノーベル文学賞作家のHeinrich Boll(1917-1985)の小説にもかなり傾倒していました。
私はこれまで左翼思想を持った建築家としてやってきました。アメリカをはじめ先住民族を滅ぼして新たな国を築きあげてきた破壊的な国々に対して嫌悪感を持っています。あるドイツ人作家が言っています。ドイツ人は自分たちの国が破壊されたことを忘れています。ドイツは完全に破壊されており、爆弾で被害のなかった都市は無い。しかし、この悲劇を語る作家、社会学者、芸術家はいない。戦後ただ下手に都市を再建してしまった。
考えてみれば人間というのは残酷で一種の悪なのです。ローマ帝国も破壊、皆殺し、支配によって築き上げられたことが歴史に残っています。しかしそれはあまりリアルとは言えない遠い過去のことなので想像が難しい。ガリア戦記にはカエサルがフランスを占領するために50万人を殺したと記しています。その当時では恐ろしい数だったはずです。現実、リアルさとは何なのか。それを追い求めてきた人生なのかもしれません。

H. 1950年代から60年代あなたが黎明期の教育を受けていた時代は、世界の激動期だったと思います。様々な国、民族が、政治、宗教、経済に関わるドラマが繰り広げられていました。そういった混沌とした時代に受けた教育を基礎に、フィレンツェで建築を学び始めますが、建築という概念、創造、職能をそれまでの多くの経験と記憶から醸成していったと思いますが、どうやってあなた自身のアイデンティティを構築していったのでしょうか。

M. フィレンツェではいつも古い旧市街のエリアに出向いていました。第二次世界大戦でドイツ軍は、撤退の時、ポンテベッキオ以外の橋を全て破壊して去って行きました。その周辺の道路も全て破壊されていました。Borgo san Jacopo地区やBorgo santa maria地区などの再建が大きな課題でした。
私が学んでいた学校の若い教授たちがその計画に携わっていました。Leonardo Savioli(1917-1982)、Leonardo Ricci(1918-1994)、Edoardo Detti(1913-1984)、Giuseppe Giorgio Gori(1906-1969)ら当時30代の若手建築家たちは、現代的な町の姿を描いていた。彼らは、当時フィレンツェのキーマンだったGiovanni Michelucci(1891-1990)の計画に賛同していませんでした。古い建物の街区に全く様式の異なる建物を建てることに異議を唱えていました。
そういった都市再興の論争を客観視しながら、私自身はMies van der Roheの作品群を知ることで、彼の様式に没頭していました。彼の全作品の図面を投影図法で複製した。特にコートハウスに注目していました。大学の最初の課題では、ベネチアの水上に四つ葉の形をしたガラスの街を計画した。もしかすると、幼少期ガラス工場の街、ピサで育ったことが、ミースの作品やガラス素材へ傾倒させた理由かもしれません。のちにNorman Foster(1935-)が設計したIpswichのWillis Buildingの黒いガラス構造の計画がとても似ていることに驚きました。あいにく私の課題作品は大学に残っていないので、30年前の計画をお見せすることはできません。また、松林の中にガラスの家を計画しました。松林から海に抜ける敷地に透明なパビリオンがあり、独身の家、学生の家などを設計しました。ミースのファンズワース邸へのオマージュだったのかもしれません。
ただ、私の建築への姿勢は二面性があって、古いものへの情熱、特に目の前にある中世の街への愛情がほとばしっています。ピサの街は1406年、1509年にフィレンツェとの戦いで敗北し、街は半壊しています。私の姿勢は、先住側の生活、習慣に視点をおいて過去の文化を蘇らせるような都市計画、建築計画を大切にしています。学生時代からピサの歴史を学び、他のイタリア、ヨーロッパとは異なるロマネスクのカテドラル遺跡の素晴らしさを知ることとなりました。教会堂建築においては最高の知識・技術・芸術が集約されている時代の痕跡がピサの街には散りばめられていました。おそらくギリシャ文化にも近い遺跡です。私の事務所で孫ほどの年齢差のあるトルコ人建築家のスタッフと一緒にカテドラルの図面を手に入れ、新たに大きな図面として描き直しました。この時代の建築の完璧さを象徴するかのような図面となりました。またピサの街全体の建物も描きました。ピサの城壁はフィレンツェの1500年代のものとは違い、2mの厚さの壁で、街を7kmに渡って囲んでいます。街と郊外の関係が明らかで、平原から街や、建物が見え、山から郊外の平原の先に白い石でできた塔とカテドラルを望むことができるのです。大学の卒業論文で、ピサのDuomo前の病院があったところをピサ大学に改修する論文を書きました。卒業後、最初に設計した建物は、煉瓦でできた片流れの屋根勾配の長方形の小さな家でした。ミースをリスペクトして学んできた現代建築への情熱が、学生時代の最後には古い街のへの愛情のよって冷まされていったのでした。

H. 論文の内容をもう少し詳しく教えていただけますか。その論文は当時の大学や建築業界ではどのように受けとめられたのでしょうか。

M. 論文の成果物は48枚の大きなパネルになりました。実はこの論文は、妻のGabriellaと共同して完成させました。出会ったのは大学で彼女が18歳で私が20歳の時でした。彼女はアルゼンチンから出稼ぎに来た父親と一緒にイタリアに来ていました。
論文の一部に、ピサ大学を学科で再編成するタイポロジーを提案しました。私たちが卒業した69, 70年には大学は再編成について考え始めていました。この変化がその後どのように位置付けられていったのかは定かでない。今もまだ、建築学校とか建築学部とか呼び続けている。以前教鞭をとっていたベネチア建築大学もどのように呼べばいいのかわからない。IUAV(Istituto Universitario di Architettura di Venezia)なのか、Universita IUAV di Veneziaなのか。私の人生の姿勢は、先のわからないことには専念しない主義なのです。重要なこの項目の論文はGabriellaに任せ、私はそれを説明するプレゼンを細かいフェルトペンで学部から学科に変化していくプロセスの図表を描きました。とても美しい図表となっています。
同時に現在の病院があった町の一部の敷地に新しい大学の建築計画をしました。もちろん論文なので仮説の計画ですが。実際には実現できない空想的な計画でしたが、当時の大学の教育ではアンビルドの計画による想像力の強調と唱える教授たちが多くいました。当時は世界的にもメガストラクチュア、メガシティが流行していました。私より少し歳上のAdolfo Natalini(1941-2020)がSuperstudioを組織してアンビルドの建築や都市の計画を次々と世に出していました。無限の都市、空母のように浮遊する都市、洪水のフィレンツェ、イギリスではPeter Cook(1936-)のArchigramが動く都市などを描いていました。世の中は空想の世界に酔っていたのです。
私はそれに反して実際に現実化するリアルな世界へと向かって行きました。それは私にとって、すこぶる有利な環境でした。アメリカで発刊されている本でBefore and Afterというシリーズの本があります。違う年代の都市のスカイラインの写真を撮影したアルバムです。都市の変化を生き生きと感じさせるこの本は、私が研究の対象としていた時代と変化というテーマの柱でした。そして都市の風景は、全て生きている環境に関係しています。イタリアで何ができるのか。イタリアには歴史を背負った古い街や村があります。新たなる建物を構築する場合は常にそれらと対峙していかなければなりません。私に課された仕事の多くは、古い建物や公共空間の修復や、古い建物の内部の計画などでした。当時の建築家たちが全く興味を示さない、また技術的にも研究としても時代から取り残されていた領域、分野の仕事でした。ですから自分の目的と能力を発揮する機会を得たのです。若さというエネルギーもあり脇目も振らず夢中になっていました。

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