Innami Synthesize Planning

印南総合計画

「私の人生において、建築から学んだ現実の世界とは」
 —Massimo Carmassiとの対談 その3


H. さて、話題を少し変えて、今私たちがいるシチリアの歴史を考えながら話を進めていきましょう。シチリアは島というよりも、小さな大陸と呼ばれています。あなたは、この島のことをどのように考え、感じていますか。

M. 私は小さな島に行くのが少し怖かったのです。初めてこの島を訪れたのは建築の学会のためでした。思っていたよりも広く、東西の距離も長く文化も異なっています。カラブリアとシチリア島をつなぐ橋の建設には大賛成でしたが実現しませんでした。しかしそのことで孤立したわけではなく、いわゆる独立州としての特区として、他のイタリア人とは異なる習慣は言葉を有しています。

H. シチリア島には現在9つの州があります。これまでギリシャから始まって、アラブ、スペインなど様々な国によって統治されてきました。多くの異なった文化が繰り返され、外から入ってきたことでこの島の許容性が高まったと考えてもいいでしょう。あなたはシチリアに移住して、現在この島の環境、文化にどのように順応し、周りから受け入れられていますか。

M. シチリアという場所には潜在的な価値と、実用性があると思います。地中海の中心なので多くの民族が行き交う交流の拠点でもあります。歴史的に考えるとカルタゴと同様にフェニキア人に占領された時代に、暑くて干上がった土地に、アラブから柑橘類が多く運ばれてきたのです。オレンジやレモンなどが植えられ豊かな土地になっていきました。上空からカターニアや、パレルモの街を見下ろすと、緑のオレンジ畑が広がっています。ローマ時代はアフリカとともに食料庫のような場所でした。エトナ火山が硫黄を産出していることで、ローマとカルタゴは奪い合って戦っていました。結局一部がローマに、一部がカルタゴに支配されることになります。しかしなぜかどの文明時代も長く続くことはありませんでした。農耕文化をしっかり考えていたアラブ以外は搾取のみを目的にこの土地にやってきていたわけです。シチリアのVespriはフランス王族との暴動で有名になり、またGiuseppe Garibaldi(1807-1882)は、Camicie Rosse(赤シャツ隊)を率いてシチリアのマルサラに進軍して、その後イタリア統一を成就することになりますが、それが本当に良かったのかどうかはわからない。シチリアの豊かさは硫黄の使い方と、アルコール度数の高いワインを産み、イギリス人がマルサラ酒を生み、大航海時代にこれらのお酒が世界に運ばれるマーケットができるなど、イギリス文化の影響も大きかったのです。
そのような場所ですから、私はイタリアとは別の国のように考えています。そしてギリシャ文明がシチリアに残した遺跡は、おそらく現在のギリシャ本土よりも多いでしょう。現代まで残っている神殿が、AgrigentoやSegesta、Selinunteにあります。実り豊かな土地のおかげでかなり進歩的な文明だったのです。地理的に考えると、海運を使って、サルデーニャからイタリア本土のカラブリアへの移動がスムーズにできるため軍事力も強大でした。Johann Wolfgang von Goethe(1749-1832)のイタリア紀行(1786-88)を読むと、その時代のシチリアは、土地が険しく移動の困難さを綴っています。現在も、橋が壊れたりして隣町に行くことも出来なくなったり、鉄道の路線の多くも廃線になってしまっています。ピサがフィレンツェに占領された時、シチリアに財産があった一族はシチリアに逃げて移住したのです。ピサにはもういない名前、AlliataやAjutamicristoなどピサの貴族に起源をもつシチリア貴族がまだ多くいます。1066年に建立が始まったピサのカテドラルは、ピサがパレルモを略奪した財産を使って立てたものです。そして、ピサのロマネスク様式がシチリアのアラブ様式の装飾にもなっています。つまり、ピサとシチリアの間には強い絆のような関係があるのです。

H. 17世紀から何回もエトナ山が噴火しました。当時のシチリアの都市のほとんどが破壊されてしまいました。ModicaにあるSan Giorgio教会を建設したRosario Gariardi(1690-762)は壊滅していた都市Modicaや、Catania、Siracusaの計画を、同じ場所に同じ形で復元しました。一方で、Ragusaは街を二分して、Citta altaとCitta Bassaという計画で新旧の二つの街を計画しています。また、Notoは全く違う場所に街を復元しています。街の復元にこういった違いがなぜあったのか不思議に感じます。そしてバロック様式がなぜ生まれたのかも考えて見たいと思います。

M. 当時の歴史を詳しく説明することはできないが、私はイタリアの主要なシチリア文学をかなり読み漁りました。Luigi Pirandello(1867-1936)、Luigi Capuana(1839-1915)、Salvatore Quasimodo(1901-1968)など大好き文学によって、シチリア性を理解しようとしました。
同じ場所で復元するかどうかの要因は解らない。地震で破壊された建物を調査すると、それまでの災害を経て造り直されてきた歴史も見えてくる。溶けた溶岩が残った壁や、様々な種類の石材で作られたものなど、そのようなものを復元することは不可能です。時代によっては貧弱なモルタルで修理されたものもあったりする。地理的の都合の良い環境、水の問題、つまり井戸が掘れるかどうか、そして領主となる貴族の望みなどがあったはずです。新しい土地で新しい構造で新しい街を作る何らかの意図があったのだろう。長い通り、長い階段、豪華で堂々とした館などは、貴族たちの権威を象徴化するには好都合だった。シチリアのバロック様式は祝祭的表現主義と言えます。当時のシチリアの建築家たちは、ローマやナポリとのつながりがあったはずです。人物像や化物の像が装飾として多く彫られています。これは本土のLecceと同様に彫りやすい砂岩でできた建物が多かったためです。そしてシチリアは広大な土地を貴族が所有しており、大規模の農業を行う豊かな大地でした。しかしある時、市民の反乱により領地が細分化されました。それによって、Ragusaは土地を石壁で区画する習慣が生まれました。
もう一つ原因があります。石と土が混ざった大地から農業のために石を取り除く作業をした際、それらの石を積み上げて壁にして行きました。それは区画の機能と同時に、シチリアはアフリカからの南風が強い島でしたから、その風除けの機能も果たしていました。農民が大切にしていた土地を風から守っていました。どれくらいシチリアが豊かであったかが分かる場所がある。EnnaのPiazza Armerina近くにあるVilla del Casaleには、紀元前4世紀初頭までに作られた世界最大級のモザイクが見つかっています。アフリカとの交易などで栄えたことがわかってきています。

H. あなたは大学で建築の修復や都市計画の教育を長年やってきました。そこで、もしあなたがシチリアの古代当時に生まれていた建築家だとしたら、火山の噴火や地震で壊滅した街の計画は、復元するのか、新しい場所で新都市を作るのか、どちらでしょうか。

M. 例えばSiracusaのカテドラルは、かつてのアテネの神殿の柱を組み入れています。内でも外でもそれが見られます。これこそが、歴史の新旧のつながり表現するひとつ方法です。SiracusaにはVincenzo Latina(1964-)とEmanuele Fidone(1960-)という優秀な建築家がいる。彼らは私の方法論よりも革新的な方法で修復計画を行っている。
しかし、私にとっては、修復でそれまでのものが保存できなければ修復とは言えない。修復跡を隠してしまってはいけない。もちろん必要がある場合は、新しいものが不可欠なのですが、すでに修復され保存されているものには、私は手を出すことはしない。ギリシャやローマの神殿は基本的な定型を持っているので、重要な部分が保存されている場合は、部分を再配置することで再建することはできます。長い歴史の変遷が層を成している建物の場合、例えば、ローマ帝国の時代に立てられ、アラブ人がやって来て上に何かを建て、そしてスペイン人がさらに何かを付け加えた建物が破壊された場合、私の意見として、再建は不可能だと考えます。このような場合には、元あった建物とは違う価値と現代的な建物として生まれ変わらせなければならない。新たな機能や用途なども加え、新たな美しさを求めることが重要です。
雑誌などで取り上げられていない重要な計画があるのでひとつ紹介したい。マントバにあるPalazzo Ducale di Guastallaの計画です。Gonzaga家の分家の所有の建物ですが、焼いていない煉瓦で作られ始め、最初は正方形の2階建ての建物でした。そこに17世紀に1階を積み重ねより大きな建物に改造していました。内部空間には、Sala dei Gigantiという大広間を作りました。しかしこの改造は構造の欠陥があり、19世紀にその空間を9つの部屋に分けてしまった。部屋ごとの屋根の形状が異なり、床や暖炉も異なっています。すでに存在しない元の大広間を復元することはできない。時代を経る中でそれぞれの部屋に手が加えられ違う年代に何度も内装を塗装されて部屋もある。ある一部の部屋にはSala dei Gigantiの頃のフレスコ画や装飾が塗り隠されていた。もちろん安全上の階段を保存しなければならないし、床下に階段が見つかり、これをどう生かして行くかを考えることも必要でした。隠れた扉を見つけ、漆喰をはがし、屋根のひさしの穴を見つけることもあった。このような発掘プロセスによってルネッサンスの時代の建物の有り様を理解することができるのです。このような作業プロセス経て、Palazzo Ducale di Guastallaという建築の存在価値を守って行くことができたのです。この作業は一種の考古学的なアプローチですが、このようなことは、現代の建築の世界にも生かされることだと思います。
私は具体的経験の方が、多くの学説よりも重要と考えています。修復された多くの建築の傾向ごとに、修復に対する憲章が作られ、できることとできないことを説明するための条文があります。そこには、新旧の違いを強調するために、部屋を元通りに復元してはいけないなど、ある意味馬鹿げたルールになることもある。機能的に欠陥のある屋根が、実は単なる幾何学的な飾りであった場合、穴を残して修復してはいけないのか。新しいルールを考えるよりも、様々なルールや法律、慣習などを分析して、疑問を投げかけることが大切だと思います。全て美しいと、批判なしでは、歴史や建築史を学ぶ意味がない。ギリシャの神殿では柱の間隔が数学的に正確であり、その幅を狭くしたり、広くしたりすると醜く見えてしまいます。そして最終的に遠近法を調整するために、最後の柱を少し傾けています。現在、このような方法論はユークリッド幾何学の今の建築の世界では失われています。

H. 遺跡や古い歴史的な建造物の保存修復には、国や自治体の規制やユネスコのルールや規制や社会的、経済的な問題や、権力的な圧力などと遭遇したことはありますか。

M. もちろん市役所に勤めていたころは、そのような問題だらけのプロジェクトに関わっていました。しばしば政治的な理由に対して順応しなければならないこともありました。時には権力に従順になることです。このような私の考えは無政府主義者と言われても仕方がないですが。
Paolo Marconi(1933-2013)の本を読むと、序論から権力構造への批判が述べられていました。古代ペルシアではSatrapoと呼ばれる、貴族や王族の家族から選ばれて、正義を統治する権限を有した家臣がいました。それと同様の権力構造の役人がイタリアにも存在し、彼らが何でも決めることができ、誰にも訴えられないということがありました。これはコネと、えこひいきが蔓延する権力集団を産んでいます。権力側の仲間や友人であれば不合格なものでも合格になり、醜いものでも美しいものとなり、美しいものは無視されてしまう。イタリアの大学でも何度もニュースになっていますが、何十年立っても変わらないのです。例えばローマ人が政治に近づいたのと同じように、大学教授の職業も役人と同様なものです。ローマから離れたところでは、役人の権力も政治力も弱くなり自由な頭の柔らかい役人もいます。しかし議論もできないレベルで、逆に仕事の邪魔をするような馬鹿もいました。Antonio Gramsci(1891-1937)は誰かを殺した犯罪で留置されていたのではない。ただレジスタンスのチラシを持っていただけなのです。彼を排除する言い訳だったのです。
イタリアには20万人の建築家がいるため、皆に十分な仕事が行き渡ることはできない。2009年のL'Aquilaの地震が起こった後、この街も文教地区の再生計画のコンペティションを獲得したのですが、なかなか仕事は始まりませんでした。私のグループのメンバーがプロジェクトの業者登録のための登録費の250ユーロを遅れて払ったという理由で、6ヶ月後にコンペで2位だったチームに仕事が渡ることになってしまったのです。弁護士を雇う費用もなかった。3700万ユーロの仕事が250ユーロのせいで奪われてしまいました。この事件の後、C.N.A(Confederazione Nazionale dell’Artigianata)が、コンペの無効条項のルールを変更しました。イタリアではこのようなプロジェクトを奪っている企業のほとんどは、建築の専門会社ではなく、エンジニアリング会社が受けて、建築事務所はその下請けという構造です。建築の修復という意味、価値、理念を理解して、仕事を進める知識と能力があるとは思えないのです。

H. 80年代に、Bruno Zevi(1918-2000)が右翼政党を設立して政治の世界に登場しました。I.U.A.V.の教授だったMassimo Cacciari(1944-)がベネチア市長になりました。当時の社会状況で建築家が政治力という権力を持つことが重要だったことは理解できますが、あなたはこの社会現象についてどのように考えますか。

M. 昔、ボローニャで2000人の聴衆の前でBruno Zeviと大げんかしたことがあります。アメリカの資本主義的思考の人で、かなり攻撃的な性格の人でした。自分の考え方に従うことが正当なことであるという考え方を持っていました。古い建物を潰してはいけないと、たまには正解を述べることもありましたが。
政治というのは与党と野党という二元構造で権力を争っています。Zeviが目指していたのは与党的な権力を持つことで、社会を自分の考え方で動かすことができるという希望があったのでしょう。権力による支配は、民主的に物事を考えるよりも、多くの規範やルールを批判しないで従順であれば仕事は入ってくるしスムーズに進めることができます。例えばGeorge-Eugene Haussmann(1809-1891)は、シャンゼリゼ通りをはじめとする12本の通りをパリに作るために都市の半分以上を潰しました。街の住人の中には中世の歴史が破壊されることに異議を唱えるものも少なくなかったのです。しかし王家と王家の権力を持った建築家のHaussmannは計画通りにパリ大改造を成し遂げたのです。

H. Zeviと喧嘩した理由はなんだったのですか。そしてどんな意見の食い違いだったのでしょうか。

M. Zeviは建築の完全なる変化を望んでいました。私は、悪くない意味で保守的な人間です。Zeviは歴史家としては有能で、当時のイタリアでは文化人として有名でした。ユダヤ系のイタリア人で権威的で尊大な性格でした。独善的に一方的に話すタイプだったので、私の話を遮って話すことが度々でした。彼はFrank Lloyd WrightやZaha Hadidoが好みでした。私の性格と好みの違いが議論にならなかったということで、喧嘩とは言えなかったかもしれません。聴衆たちの印象はわかりませんが。彼の息子のLuca Zevi(1943-)とも共同で建築修復のマニュアル本を出版しました。

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