Innami Synthesize Planning

印南総合計画

「私の人生において、建築から学んだ現実の世界とは」
 —Massimo Carmassiとの対談 その2


H. 卒業後は建築の世界でサイレントマイノリティとして地道にリアルなプロジェクトを手がけていたわけですね。当時は、建築様式や、建築スタイル、流行建築、建築運動など、建築の概念化が当時の時代性を象徴していたように思います。少し戻りますが、あなたがそのような時代の大学時代で、どういう教育システムで、どのような先生から学び、影響を受けたのかということに興味を持ちました。

M. 当時私が学んだ建築学校の環境、教授陣はイタリアでも最高のレベルだったと思う。しかし私はその環境を受け入れた従順な学生ではありませんでした。例えばLeonardo Ricciはアメリカで学んでおり、イタリアで可能なものを教えるよりも不可能なものを教えていました。教えていたものが半世紀後に、Zaha Hadio(1950-2016)によって可能なものになりましたが、その間のイタリアの建築界に与えた影響はほとんどなかったと言えます。
戦後のイタリアでは国土の再建がうまく機能していませんでした。2つの戦争を経て、ラショナリストたちは少数の公共施設を建設しましたが、それらはとても重要でした。1936年に完成したフィレンツェ駅を設計したのは私が学んでいたGiovanni Michelucci(1891-1990)だと言われていましたが、コンペティションで6人のチームで設計したものであって、当時有名であったMichelucci先生の作品となってしまっていましたが、彼自身はそれほど主要な役割ではなかったようなのです。彼の講義には興味は湧かず試験だけ受けた記憶があります。Leonardo Svioli先生はアルノ川の北側地区の破壊を構想していました。Leonardo Ricci先生は先ほど述べた不可能な設計構想と共に、アメリカで学んだインテリアデザインの手法を教えていました。素材を組み合わせて即興的に結果を作り出すワークショップなどを実践していました。それはJackson Pollock(1912-1956)に見られる手法にも似ていました。この講義は建築の形やスタイルと直接関係していなくても素材の使用法のシンタックスを教えていました。現在のコンピュータのプログラミングにも似た手法だったと思います。構造のシンタックス、言語のシンタックス、素材のシンタックスは、建築においては基本となる考え方だと感じました。シンタックスというテーマは、私の建築手法となっていきました。例えば、煉瓦の家を建てるには建築上のシンタックスに従わなければならないし、表現主義のスタイルを使うなら、表現主義のシンタックスを守っていく、コートハウスを建てるのであれば、ミニマリズムというスタイルで、その建築に関係するシンタックスを使う。ガラスの家の場合は煉瓦や石の家と同じシンタックスは使えないでしょう。
教授たちに共通していたのは、Superstudioが標榜していた流れだった。同じ言語ではなかったけれども、メガストラクチュアに対する肯定的な設計思想を持っていました。教授たちと共にメガストラクチュアの考え方で建設されたイギリスのスコットランドの町Cumbernauldを見学のために訪れたりしました。巨大な鉄筋コンクリート造の建築物に衝撃を受けて、このような計画を手がけている事務所で働きたいと、イギリスの建築事務所にオファーを出してみたのですが、当時ヨーロッパでの景気が落ちてきて、イギリスの国境が閉じられてしまいました。もともと英語がそれほど堪能ではなかったので落胆はしませんでした。ロンドンでは人口増加のために郊外には花が咲いたように多くのニュータウンが建設されていた時期です。人文主義の性格だったLeonardo Savioli先生が出した課題に、アルノ川の周辺に1000戸の住宅と商業、公共施設、学校などのメガシティを計画するというものがありました。そこで私は、Cumbernauldのオマージュを描いて提出しました。実際に現実に存在しているリアルなものだったからこそ、私にとっては具体性のある計画だと思っていました。
卒業後には、仕事のため、生活のため、稼ぐために実現可能な計画をやってみようという志を持っていました。SuperstudioやCumbernauld、アンフォルメルなArchigramの潮流を追うよりも、ミニマルなコートハウスを目指した方が懸命だっただろう。SuperstudioのAdolfo Nataliniがそれまでやってきたことが全て不可能なものだと理解したのは、彼がスイスに建てた最初の住宅作品をdomus誌に掲載されたものを見た時でした。建築家でなくても測量士にでも建てられるような住宅でした。しかし、彼を否定したわけではなく、彼は、空想と現実をしっかりと区別出来る建築家でした。空想はとても美しくユートピアであり、現実はディストピアなのだと。Adolfo Nataliniはニューヨークでもメガストラクチュアの計画を行なっていましたが、ニューヨークは現実に摩天楼が次々と建設されている都市でした。その現実こそが世界の象徴だったのです。そしてビル群の同質性がこの都市を歴史的にも傑作なものにしていったのです。しかし50年前夢想した都市像が現実的となった今日、ニューヨークもシカゴも派手な空想的な建物のせいで、都市の魅力、価値、アイデンティティを低下させています。私はそのことに、常にアイロニーを含めて語り、批判してきましたが、誰も私に摩天楼の計画を頼んではきませんでした。もし頼まれた場合は、単なる並行六面体のビルをデザインしただろう。いつも話題から少し離れてしまうが、私は大学での教えに対して反面教師的に影響されたのかもしれませんが、かなりエゴイスティックな人間なのかもしれません。

H. あなたのそのような建築への姿勢は、クライアントが存在する設計事務所を経営していく実際の仕事と、大学で教鞭をとって学生たちに建築を教育していくということに、どんな違いがあったのでしょうか。あなたの作品を見て学生たちは学んでいたのでしょうか。それとも、あなたの考え方、経験、人生観などが学生に何らかの共感を持たせていたのでしょうか。

M. 私は大学を卒業してから20年間は現場で建築の設計に没頭していました。そのうち16年間はピサの市役所で働いていたために多くの公共のプロジェクトを担当しました。その後、建築の設計をしながら、多くの大学で教鞭をとるようになりました。トリノ大学をはじめとして、ジェノバ、レッジョ・カラブリア、ベネチア、フェッラーラなどのイタリアの大学で建築を教えていました。アメリカのシラキュース大学でも教えていました。本格的に腰を据えて教えたのはベルリンでした。ちょうど、ベルリンの壁が崩壊した頃で、激動の時代だったために、歴史的にもいい経験をすることができました。イタリアの大学では教えるための材料、課題はその街に山積していたために、リアルな場所をテーマにすることができました。例えば、ベネチアにはゴミが集められる島があり、そこに新しい施設を計画する課題や、フェッラーラの水路にドックを計画する課題など、その場所でしかできないものを、そして実際にこれからものが建てられる場所をテーマにしていました。具体的に現実を調査して、都市レベルのスケールの課題がほとんどでした。
私は小さい建築があまり得意ではありません。複数の要素を組み合わせた大きなスケールの計画が私のスケールなのです。都市学ではなく都市計画を教えていました。先ずは学生たちには、現在の状態を絵や、図面や、写真で徹底的に表現させてから、それぞれの案との変化の比較ができるようにしていました。それぞれの提案に対して、シンタックスの修正のためのヒントを与えていくとうやり方でした。私の建築をテーマに卒論にして本を出版した学生もいます。私の建築に基づいて計画を進めた学生もいましたが、重要なのは表現手法ではなく、私の持っている方法論を解き明かすことだったのです。私は、古い歴史的な現実を現代建築の方法で守ろうとしていたのです。いわゆる合理主義者なのかもしれません。授業の中では、ガラスやコンクリートと古い煉瓦や石の使い方や、規制、ルール、そして構造的な基準をどのように統合して現実化していくかというプログラムを見つけていくという流れを教えていました。私はそれまでも多くの旅をして、多くの建築の実際の写真を撮っていたので、授業で示すことで、その醜さや美しさを熟考させ、例えばZaha Hadido(1950-2016)の建築におけるシンタックスの誤りをなど指摘することができたのです。ソウルのDDPは唯一の成功事例かもしれませんが。

H. 例えばベネチア建築大学では、大学の創世記の頃、Giuseppe Samona(1898-1983)が都市計画的な視点で建築教育の基礎と、大学のスタイルを築いていました。Samonaはその後も教育の場と並行してGiancarlo de Carlo(1919-2005)らとシチリアのパレルモの都市計画を行い、またボルツアーノやトレントなど北イタリアの計画も行っていました。それらは全てベネチア建築大学の教育のスタイルを現実化する実践でもあったような気がします。その後、Ignazio Gardella(1905-1999)やArdo Rossi(1931-1997)、そしてManfredo Tafuri(1935-1994)らが大学のスタイルを醸成して行きました。この大学であなたは13年間教鞭をとられていました。これまであなたの建築理論や教育方法をお聞きしてきましたが、ベネチアで教えておられたころも含めて、世界の建築家やイタリアの同時代の建築家などの作品や活動に対して、あなたの本音の建築批評を少しお聞きしたいと思います。

M. 当時のイタリアにおいては、過去と現代を繋いでいくような建築家は少なかった。ミラノには、Gio Ponti(1891-1979)やLuigi Moretti(1906-1973)がいた。ローマには、Franco Albini(1905-1977)やSaverio Muratori(1910-1973)がいた。過去をリスペクトして現代につなぐ美意識を持った、彼らが作るような建築は少なかった。建築家のオリジナリティは必要だが、過去の建築と同質のものの中に個性を導き出すような建築であって欲しい。大きさやボリュームよりもディテールに宿る美しさに惹かれています。多くの価値のない建築は醜くもなく美しくもない中性的とも言える意識の外の建築でした。
ベネチアではZino Valle(1923-2003)やArdo Rossi(1931-1997)、Carlo Aymonino(1926-2010)もいました。Ignazio Gardella(1905-1999)は特に好きで、アレッサンドリアのボルサリーノビルは傑作です。そしてCarlo Scarpa(1906-1978)のカステルベッキオや、クエリーニ・スタンパーリアも好みでが、彼が作った住宅はあまり好みではありませんでした。かなり間にマニエリズムが強すぎて住む気にはなれません。彼の息子のTobia Scarpa(1935-)も父親譲りのマニエリズム派の建築家です。私よりもかなり若いCino Zucci(1955-)がベネチアで設計した立方体の住宅などは傑作で、これからのベネチアの風景を期待できます。それからGiorgio Grassi(1935-)が建てたスペインのバレンシアにあるサグントの劇場や、オランダのグロニンゲンの図書館は秀逸です。Rafael Moneo(1937-)のスペイン・カルタゲナの劇場・博物館のように、かなりマニエリズム派なのですが、Grassiの劇場の方が美しいと感じます。Moneoのスペイン・メリダの博物館に対してはシンタックスにおける欠点を感じていた。彼がハーバードで教鞭をとっている時、ヨーロッパの建築家展に参加して会ったことがあるが、Ardo Rossiの展示に傑作が見当たらないのが残念だと言っていたことを記憶している。ミラノのガラタテーゼはかなりの傑作だったのでしたが。その後彼もマニエリズムの流れに乗って行きました。忘れてはならないRenzo Piano(193-)の最も良い作品は、ポンピドーセンターでしょう。しかしこの建築のシンタックスを考えると、主にRicherd Rogers(1933-)の手によったものだろうと確信しています。私が最初に影響を受けた建築でもあるLouis Isadore Kahn(1901-1974)の作品は全て訪れています。アメリカ、インド、バングラデシュなどかなり冒険的な旅をしました。影響は受けましたが、彼の幾何学的な形態はあまり好きではありませんでした。彼の作品でアメリカにはあまりいい作品はないと思いますが、それでもキンベル美術館は傑作です。アメリカでは建築はビジネスのひとつとなってしまっています。初期のFrank Lloyd Wright(1867-1959)や、Mies Van der Rohe(1886-1969)以外の現代建築にはあまり興味を湧くことはありませんでした。

H. 建築家のイデオロギーには、左派、右派的なものや、経済的、政治的な考え方があると思います。例えば、ベネチア建築大学の思考や、Rossiが左派を標榜していたと思います。そう考えると、先ほど述べられたPianoは右派と考えるべきなのでしょうか。

M. Pianoは右派というより、単なる商人と言っていいでしょう。建築のマーケットをうまく利用している建築家です。かなり多くの彼の作品を見ましたが、未完成の部分がかなり見られます。そこをうまく隠すデザインをしています。ディテールのコントロールが少なく、レンガの隙間のモルタルがむき出しだったり、フェイクの石などの素材で張りぼての印象が強いのです。空間のシンタックスも感じられません。彼の戦略は新しく見える効果や、一種のヒロイズムに近い建築家のスター性でしょう。いつも同じスケッチを利用して、あたかも1ヶ月で撮影した映画を、6年がかりで撮影した映画のように見せています。例えばFrank Owen Gehry(1929-)が建てた、ディッセルドルフのノイアーツォルホーフの3つの対比的な建築群のシンタックスは建築施工の質も高い。煉瓦によるビルと、漆喰によるビル、チタン製のビルの3棟が川の前の敷地に完璧にコンポジションされています。
写真映りの良い建築というものもあります。学生たちとミラノのHerzog & Meuron(1950-)が設計したFeltrinelliビルを訪ねた時、雑誌の写真とのギャップに学生と共に驚かされたことがあります。写真で見るとよく見えるものがあったり、実際にみると美しいものが写真では表現できないものがあったりします。空間や光は特にそうです。また、同じものを何度も何年後かに訪れることも重要です。何度訪れてもがっかりしない、いつも新鮮な驚きがある建築はScarpaのカステルベッキオ博物館です。私のとっては1900年代イタリアの最も重要な建築だと言えます。そして同様にKahnのキンベル美術館が双璧だと考えます。

H. ベネチアでの安藤忠雄のPunta della Doganaはどう評価しますか。Scarpaや、あなたの手法にも似た修復を伴った作品ですが。

M. 安藤忠雄は嫌いではないが、マニエリズム強調し過ぎる。そしてワーカホリックだ。Scarpa同様にコンクリートを使う能力に長けている。しかしScarpaはコンクリートと真鍮や木材との調和が素晴らしい。Brion墓地はマニエリズム過ぎてあまり評価しないが、ヴェローナのBanca Poplareは傑作と言えるだろう。安藤についてはかなり勉強し、作品も訪れている。Punta della Doganaのコンクリートについては、シルクのように美しいと言われているが、本来のこの建築に必要なものだっただろうか。ただ、全体として一貫した姿勢は共感できるものがある。トレヴィゾのベネトンスクールの修復プロジェクトは評価できない。やはり、その土地の生活、文化、地域性に密着した施設を、海外の建築家が手がけるのは難しい。キンベル美術館のそばに安藤が設計したFortworth Modern Art Museumはシンプルで美しい。Pianoのキンベル美術館新館は成功していない。一方で安藤がバーゼルで設計したVitra Seminar Houseはドイツのアルミ素材の使い方が上手く出来ていない。これは海外で設計を手がける時に建築家が陥る問題です。Kahnがベネチアビエンナーレのジャルディーニの計画していた会議場が実現できなかったことや、Le Corbusierの病院も同様だ。Wrightもバーゼルの住宅の計画を実現できなかった。自身の地域と異なる場所での現場設計の難しさでしょう。

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