現在日本には800校近い大学、短大、高専に300万人近い学生が在学している。学生たちの多くは親元を離れ、生まれて初めて訪れる地域で新しい暮らしを始める。そのこと自体がまさに地域活動のようなものだ。そんな場所に訪れて、訳もわからないまま暮らし始めることで、自分たちが育った地域の魅力に気づき、その大切さや、守るべきものを学ぶことができる。ひとには帰る場所が必要だ。地元で、住みたい、暮らしたい、働きたい。地域とは帰るための場所だ。その気持ちを投影して訪れた地域で気になる生活を送っているひとや場所に出会う。「気になる」。そんな興味がモチベーションとなってひととの関わりが生まれる。何の変化もない日々をおくる地域によそ者として訪れることには勇気がいる。しかし、学生の分際だから躊躇しないで地面に近い活動をあっさりはじめてしまう。そうやって、学生たちの近江楽座は10年続いてきた。10年目がゴールではない。小さな節目だ。昨年から活動を始めた学生たちにとってはまだ1年目だ。しかし10年間のバトンリレーが築いた地域での信頼と実績は彼らを後押ししてくれる。大学側も学生同様、その間2度交代した3名の学長や多くの教員がバトンリレーをして支援してくれた。仲間も生まれた。高知県立大学の「立志社中」など、地域に根ざした大学、学生が全国に増えている。
最近よく耳にする生業(なりわい)という言葉があるが、学生の地域活動は生業とは言わない。例えば、農家の方々自分たちが収穫した作物を販売し生計をたてることは生業だ。その恵みをつくり出すために畑を耕し、育て、収穫することは仕事と呼ぶ。学生たちの活動は、実は仕事なのだ。自分たちの生業を目的としていない、だからこそ地域に必要なのだ。真摯に地域の課題を憂え、魅力を発信する力が若者にはある。やってみると、意外にもっと魅せることができることを実感する。また、活動で得たことを生業とするものが多く巣立っていった。後輩たちに多くの仕事を残して。多くの仕事をし、多くの生業を生む。近い将来、遠い未来にむけて地域を耕す(たがえす)仕事をしてきた。英語の’culture’は土地を耕すという意味に由来している。こんなあたりまえのことに気づくための10年だったのかもしれない。学生時代に多くの仕事をし、卒業後の自分たちの社会の生業を生みだして行く。地域に生業があふれる時代がくる。近江楽座が歩んだ10年間の学生たちと地域のひとたちの汗や想いに触れ、学生たちが地域に入って活動する姿があたりまえの社会になりはじめている。今まさに大きな潮目の変化の兆しを感じる。生業を必要とする300万人の予備軍が待っている。
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