能登デザイン室・Noto Design Room
Yuichi NARA. Chie TAGUCHI
●移住定住
日本列島の中部・北陸の能登半島に抱かれた内海に浮かぶ能登島NOTOJIMA
※1に移住し、休耕田で米を育てながら建築・デザインを生業としている家族がいる。奈良雄一(NARA YUICHI 41)・田口千重(TAGUCHI CHIE 43)夫妻だ。3人の息子と共に小さな人口約3000人の島で暮らしている。雄一は東京で生まれ、大学(YNU)で建築を学びその後、C. SCARPAに憧れてベネチアに渡る。そこでの道すがら声をかけられたガラス職人の工房に出入りするようになり、2年半居候し、イタリアの職人生活を経験する。その後IUAVで建築の修復技術を学んで帰国する。妻の千重は能登地域で生まれ雄一と共に同じ大学(YNU)で建築を学びその後ロンドンに渡りランドスケープを学ぶ。ふたりはヨーロッパで別々の地域で生活をしながらも交流を続け、帰国後、千重の故郷である能登島に移住を決意する。そんなふたりは、自然が育んだ恵を最大限活かし、地域の歴史、伝統を継承した生活が残るGIAHS
※2にも認定されている能登地域の文化に魅せられ、この島での生活に希望を感じていた。雄一は能登島の海の風景をベネチアの原風景にも重ね合わせていた。彼らは島の外れに古い漁師の家を借りてデザイン事務所「能登デザイン室」を設立し、住居兼事務所として2006年より暮らし始める。日本政府は疲弊する地方の活性化を目指して地方創生というスローガンを掲げてローカリズムに光をあてていた。その後地域おこし協力隊
※3という取り組みを始め、若者たちの視点が地方に向かい始めた時期である。当時若者たちは流刑地だったこの島へ移住することを「島流しに合う」と呼んでジョークを絡めて島をリスペクトしていた。雄一と千重は島を拠点に能登地域の伝統技術や一次産業の地域資源を見つけ、日常生活で使用される商品のデザイン開発を次々と手がけていく。また、日本全国からものづくりに携わる仲間を集めてクラフトフェア「のと島手まつり」を仕掛け毎年秋に開催するようになる。島の内外からの眼や評価が島のブランド価値を緩やかに醸成していった。同時に雄一は小さな時計メーカーと契約して、地域の素材や技術が活かされた多くのヒット商品を生んでいく。彼らの感受性は、島の地域資源に光をあてていった。
●アテイエの建設
島での生活が数年経ち、家族も増え納得できる生活ができる場を作りたい。そんな欲望から自邸の計画が始まる。地域に飲み込まれない強さ、共生できる寛容さ、そんな距離感のある絶好の場所を見つける。能登湾を見下ろすその場所は、海岸にそって鉤(かぎ)っていることから曲(MAGARI)という地名だった。まさに島の歴史、自然に敬意を抱かせるような風景だった。彼らはこの建築のプロジェクトを建築家としてではなく、大工棟梁になったつもりで開始した。先ずは材料となるあての木
※4探しからだった。地元の気候と自然によって育まれた木を使うことは、皆が教訓として理解していることだった。「年を経るごとに集落に馴染み、曲(MAGARI)の風景の一部にとなることを望んでいます」と雄一は語る。暴れん坊のあての木の癖を読みながら、刻み、仕口(SHIKUCHI)、継手(TSUGITE)など木組みの伝統工法で、釘や接合金具を使用しないで構造を建てていった。トラスや筋交いなどの斜めの構造材がないのも日本の大工棟梁が伝承してきた技術だ。地震や台風など自然災害にこの木組みはしなやかに耐えることができるのだ。屋根の瓦は能登瓦だ。能登の厳しい気候や塩分が含んだ風に耐えられ、集落の屋根並みを作り自然と一体化した風景を作り出す、その風土に適した材料だ。内部の生活空間も自然との共生が生かされている。部屋は生きている壁によって包まれている。火山活動で堆積したマグマの粉が作り出した養分を持たない最もプリミティブな土であるシラス(SHIRASU)を熟練の左官(SAKAN)技術によって内壁が仕上げられている。日本人が日常生活の中でのこだわりのひとつである和室(WASHITSU)の壁は、地元の自然の恵とも言える珪藻土
※5を漉き込んだ和紙を貼っている。畳は、彼らが営む農業・米づくりの余剰物である藁(WARA)を芯にした藁床(WARADOKO)でできている。木材、土、紙、藁を総動員して、柱、梁、壁、床、天井全てが呼吸する生きた空間が出来上がった。
雄一がアテイエについて話す
「能登半島の真ん中に浮かぶ能登島の高台にアテイエはあります。暮らしてみたいと感じた土地にふらりと来てみたら、この土地だからこそ出来る、暮らしと仕事を見つけました。」
「その暮らしと、仕事を深く見つめるための拠点を作ろうと思いました。」
「ここでしか作れない、ここだからこそ作れることができる家。その土地の暮らしと共に受け継がれてきた素材と技術には確かな理由がありました。」
「その中で実際に暮らし、働くことで、島の文化を見つめ直し、そこから新しい創造を行う。」
「そういう場として、アテイエは島の人々が自然に寄り添って生きてきた暮らし、風景を考え創造していく家なのです。」
●地域共生とソーシャルデザイン
雄一と千重が島で暮らしはじめてから、彼らと同様に手に職をもつ若者が少しずつ移り住みはじめた。民宿を経営する漁師、ガラス工芸作家、陶芸家、オーベルジュを経営する料理人、蕎麦職人、日本酒づくりを始めるものなど。人的資源、風景、自然、食すべてが奏でる島の暮らしは、イタリアで始まったアルベルゴ・ディフーゾ(Albergo Diffuso)
※6のような、島全体の魅力を資源としたツーリズムの可能性を生み出している。今や3000人の島に毎年40万人近い人が訪れるようになっている。彼らのようなクリエイティブな若者が地方を目指すようになったのは、経済だけでは豊かさを享受できない社会が訪れているということだろう。彼らは等身大で物事を考え生活できる環境を探している。小さなマーケットのコミュニティの中でデザイナーとして暮らすには手づくりが当たり前のこととなのだ。自給自足に近い暮らしをするということは自身がクライアントになってデザイン製作していくことでもある。そして地域密着型の新しい参加型デザインの仕組みが生まれてくる。それはまさにソーシャルデザインと言える。現在、雄一と千重は、暮らしの基本となる能登島特有の半農半漁の丁寧な食文化を発信するために新しくペスカグリツーリズム(PescaguriTurismo)
※7というフードツーリズムを提唱し、様々な商品を開発している。コメづくり、酒づくり、土鍋づくり、食器づくり、醤油、塩、味噌づくりなど全てデザインしている。それはソーシャルデザインが個人の生活デザインにまで及んでいることなのだ。それは島の人々の日常の暮らしの風景がデザインされていくことなのだ。
用語説明
※1『能登島』(NOTOJIMA)
能登島は、縄文時代(BC131世紀〜BC4世紀)から人が住み、漁を中心とした生活が営まれ、船材の供給地、また海に囲まれた地形から海上航路の拠点として重視された土地だった。鎌倉時代(1180〜1336)能登島が伊勢神宮の御領地であった頃、島を治めるために8人の役人が島に渡り、善政を行ったことから、能登島は八太郎島と呼ばれるようになった。そして、江戸時代に入ると離島であることから加賀前田藩の有能な知識人や政治犯の流刑地になった。
そのことがこの島の文化度の高さの根源となっているのかもしれない。半島の内側に暖流が回り込み池須のようになって半島の山々の滋養たっぷりの水が流れ込んで多くの魚が生息する穏やかなで豊かな漁場となっている。周囲72kmのこの島は、磯漁を主に半農半漁の島だったが、近代に入り6,000近くいた人口が3,000人にまで減少してきた。これまで受け継がれてきた里山や里海の暮らしの知恵や文化がどんどん失われている。
※2『GIAHS世界農業遺産』
国連のFAOが次世代に継承すべき伝統的な農業システムを認定してその保全と持続的な利用を図っている。2011年に能登半島の里山・里海が世界農業遺産として認定された。
※3『地域おこし協力隊』
総務省が2009年から始めた取り組みである。都市地域から過疎地域等に移住し、一定期間、地域に居住して、地域ブランドや地場産品の開発・販売・PR等の地域おこしの支援、農林水産業への従事、住民の生活支援などの「地域協力活動」を行いながら、その地域への定住・定着を図っている。その活動費を国が補助している。
※4『あての木』(ATENOKI)
主に能登地方に分布し、産出される木材は能登ヒバと呼ばれ、ヒノキチオールという成分を含んでおり、耐久性が高く、水湿にも耐える古くから建築材のほか輪島塗の木地として利用されている。しかし乾燥すると大きな歪みが生じて暴れだすような使い難い木材だ。
※5『珪藻土』(KISOUDO)
植物プランクトンの化石が堆積して、それが隆起した山々から取れる土を珪藻土と呼ぶ。調湿建材などとして使われている。
※6アルベルゴ・ディフーゾ(Albergo Diffuso)
イタリアで1980年代から始まった取り組みで、過疎化する地方の町の空き家を宿泊施設として再生活用して町全体をホテルに見立てる考え方。
※7ペスカグリツーリズム(PescagriTurismo)
イタリア語の漁業:Pescaと農業:Agricolturaを合わせた造語で半農半漁を営む地域への観光を意味する。
(2019年 DOMUS KOREA 1号掲載)
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