炎の土地に生まれる —陶芸家・笹山忠保
人々が生きていくために選んだ場所。そこには土に根ざした地域の歴史と文化の創生がある。それが「土地」である。土と共に生きてきた一人の陶芸家について話してみたい。彼が生まれた近江という地域は巨大な湖に翻弄されてきた歴史がある。その湖の出現は400万年前に遡り、現在の場所に定着するまでには100万年ごとに移動を繰り返してきた。300万年前に出現した深い湖は、現在、信楽(シガラキ)と呼ばれる製陶文化が栄えた街のあたりにあった。その街の土地は湖の隆起によって生まれている。湖が消えた代わりに良質な湖底の土の山が出現したのである。300万年後そこは文化と産業が生まれる土地となった。この土地は、大和(日本)文化の栄えていた奈良と京都の傍にあった。古代の主要道の位置し理想的なことから、一時ここに紫香楽宮(シガラキキュウ)という宮を造営した。元来この地域は、百済亡国当時の朝廷所在時であり、百済の聚邑(集住地)であった。この付近を治めていた百済系豪族によって、山に囲まれた地という朝鮮語の「シダラ」という言葉が、「信楽」という地名となり、良質な土と朝鮮からの製陶技術の伝承と共に今に伝わったと言われている。この町で1939年、陶芸家・笹山忠保(ササヤマタダヤス)は生まれた。
彼が生まれたころの信楽は、林業、農業など自然資源を基本とした産業と、この地域で産出する粘土という宝のような資源によって育まれた陶器産業が里山の暮らしを支えていた。そこで作り出されていたものは、当時の日本人の生活にはなくてはならない道具類が主で、その中でも戦前の暮らしを支えていた火鉢(ヒバチ・炭を入れる暖房器具)は、日本の中でもトップの生産高を誇るものだった。
彼の父親は茶箪笥(チャダンス・お茶の道具の収納箱)を専門とする指物師職人(クラフトマン)だった。柿の木や欅といった硬く、制作の難しい材木しか使わない頑固な職人だった。そのため仕事も少なく、家族の生活を支えていたのは小さな畑で営む自家農業や、年長の兄弟たちの就労によるものだったようだ。自然のなかで、職人肌の父親と、隣村・伊賀(イガ)の名家出身の優しい母親や兄姉、そして祖母に可愛がられて自由奔放に育った。そのような幼少期の環境の中で彼の創作の才能が発芽することとなる。10歳の頃彼が描いた‘やかん’の絵がコンクールで受賞する。ものづくりだけでなく、ブラスバンドでも活躍し、音楽においても才能を発揮していった。幸運な事に、彼の才能を見いだした教員が彼を大事に育んでくれた。当時の日本にはこんな小さな村にも優秀な指導者が多くいたことも事実で、その後の彼の進む道も、多くの指導者との関わりのなかで築きあげられていく。
中学生の頃は、地元の産業である林業や陶器産業に従事しながら学校に通うという生活が信楽では普通のことだった。そのような経験が、地域の中でリアルに暮らしている人々の姿を眼に焼き付けていった。ものづくりが人々の生活や社会を支えている。そして、それがプロフェッションとして生活の誇りになっていく。そこに伝統という地域の誇りが生まれていく。
高校に進学する時、彼は地域の伝統産業である陶器産業のプロフェッションを目指して、当時の日本の陶器産業の首都であった多治見(タジミ)の専門学校に留学することを決意する。県を越えて学ぶ事は当時では海外に留学する位の決意が必要だった。しかし、まだ自分が育った信楽という地域の伝統や歴史の重圧を知ることもない、無垢な、明るい日本の将来を求めての留学だった。彼が目指していたのはその頃日本人がやっと意識し始めていたデザインという創作潮流の言葉の響きへの憧れだったからだ。
『伝統産地の宿命を背負って』
多治見工業高校への留学は、信楽のまちからの奨学金による派遣第一期生だった。それは伝統産地の継承と発展を担う人材としての将来を期待されたものだった。彼が所属したのは図案科(ズアンカ)、いわゆる今のデザイン科である。当時のデザインとは陶器の絵付けのグラッフィクのことを指していた。多治見という陶器産地は、問屋と絵付けのまちだったのである。つまり市場を分析して売れる絵柄のバリエーションを商品としてつくりだしていた。デザインという意味の片鱗が潜んでいたのである。しかし、笹山にとっては、中学生時代に信楽で既に習得していた技術ばかりで、高校の授業は当初退屈なものでしかなかった。
そんな中、新たな指導者との出会いがあった。京都の国立の工業試験場出身の日根野作造(ヒネノサクゾウ)である。彼は陶器の世界に産業デザインという言葉を持ち込んできたのである。産業とデザインが結びつくことで、伝統という重荷に新しい息吹が必要だと説いていた。笹山は彼の指導の元、水を得た魚のようにデザインを学んでいくことになる。これまでの絵付けの図柄を否定する事なく、ディナーセットの食器のデザインや、扇風機など、戦後の日本に持ち込まれはじめた生活道具類のデザインを授業の課題としていた。道具の機能や美しい造形を高度な複製技術によって、社会の多くの人々に普及させていくための教育だった。当時の社会、市場で求められていた製品を課題として教育に活かしていたことは、現在の大学でのデザイン教育にもつながっている。伝統産地の将来を背負っていくためには不可欠な教育であり、日本の人材育成の方向性は間違っていなかった。そして、彼は、デザインを学ぶ傍ら、彫刻や日本画、油画など、戦後の日本で雨後の筍のごとく生まれた様々な芸術運動、潮流に感化されながら創作活動に明け暮れる日々を送っていった。多感な時期をこんな恵まれた環境で過ごせたことで、彼の造形思考はアートとデザインの境界を超えたところで育まれることになる。真野善一(マノゼンイチ)や彫刻家でありながらサントリーのウイスキーのボトルをデザインした植木茂(ウエキシゲル)などのデザイナーへの憧れを抱きつつ、高校を卒業後、信楽に帰郷する。故郷の企業で働きながらデザイナーへの道を探ることになる。そこでも、また新たな指導者との出会いが生まれる。当時の信楽窯業試験場の場長だった平野敏三(ヒラノトシゾウ)だ。その後、彼から派生した幅広い人脈が笹山の人格を形成していった。
『芸術運動にのまれた時代』
戦前から信楽の屋台骨であった火鉢という製品の需要が、戦後の日本人の生活の変化により、しだいに絶滅していくことになる。まだ狸の置物が知名度もなく、信楽という土地に観光客が訪れることなど皆無であった。信楽に帰郷した笹山は、壷作(ツボサク)という信楽最古の問屋に就職する。その会社は登り窯も所有しており、自前の製品づくりにもはげんでいた。そこで彼は、この会社の売り上げをのばすための製品づくりを託されることになる。いわゆるデザイン開発である。彼の目指していたことでもあった。
ここでの彼の立場は一風変わったものだった。会社に毎日出勤するわけでもなく、県立の窯業試験場への出入りを許され様々な新しい技術を吸収していく。そして、かなりの経験者でないと扱いが難しい登り窯を弱冠19歳の笹山に炊かせ、失敗の連続といった無謀な経験をさせてもらっていた。試験場の場長であった平野敏三は、そんな笹山に様々な博学を伝授するとともに、京都の美術大学への進学を薦めるようになる。さまざまなことを吸収することで笹山の夢はどんどん広がっていった。その気になった笹山だが家庭の経済状況では叶うものでもなく、また当時の大学という最高学府に対する階級意識の壁からも断念した。しかし、幸運にも笹山が働いていた会社が進学資金を援助してくれることになり、京都の工芸指導所に籍をおいて勉強することが許された。その工芸指導所では芸術運動のるつぼに身を置く、濃い日々を2年間おくっていった。
京都の美術大学に忍び込んで、多くの知己を得、そこで生涯の師となる八木一夫(ヤギカズオ)と出会うことになる。笹山がそれまで抱いていたデザイナーへの憧れが、芸術運動のエネルギーや多くのアーティストとの出会いによって変化していった時期である。当時の京都の美術大学では、八木一夫(ヤギカズオ)や鈴木治(スズキオサム)、富本憲吉(トミモトケンキチ)、近藤雄三(コンドウユウゾウ)らの面々が教鞭をとっていた。そこで学生だった柳原睦夫(ヤナギハラムツオ)や宮永東山(ミヤナガトウザン)らと出会うことになる。そのころの笹山はマグマという芸術集団に参加して前衛的なセラミックアートの活動を展開していた。マグマは、八木一夫を中心にセラミックアートの流れをつくっていた芸術集団「走泥社」(ソウデイシャ)に対するアイロニーとして生まれた団体だった。アンチ走泥社として活動する笹山には常に八木一夫への憧れがあり、生意気にも対立する活動をすることで、精一杯のアピールをしていたのかもしれない。
『アートとデザインの狭間で』
1950年代後半の京都の文化人たちの集まる場所は、祇園や先斗町界隈の居酒屋だった。吉田光邦や桑原武夫などの京都学派の従鎮を中心に、文学、音楽、建築、歴史学者など分野の異なる知識人たちが毎夜酒を酌み交わしながら世界のアートシーンについて熱い議論を交わしていた。そこには階級や立場や世代の違いを超えた自由な空気が満ちあふれていた。1955年に政府が制定した伝統工芸、芸能における人間国宝認定制度についてもその権威主義に対してもアンチテーゼを持っていた。ノーベル賞を多く輩出してきた京都学派の空気がそこにはあった。若い芸術家の端くれを自称していた笹山やその仲間たちは、そんな恐れ多い社交界に堂々と出入りし、その文化人たちの会話から高い知識を耳学問というかたちで手に入れていった。
京都通いが続く中、まだ籍をおいていた信楽の会社・壷作での従事という二足のわらじを履いていた。それは進学を援助してくれた恩返しでもあった。会社での仕事では、大ヒット商品をデザインし、赤字の工場を黒字転換するまでになり、会社は笹山のアート活動の意味を認めることとなる。そのころの笹山は既にデザイナーとしてのプロフェッションを意識していたのかもしれない。自信があったのだろう。その上で恩師・日根野作造の助言に背いてまで前衛陶芸の道に足を踏み入れようとしていた。それは、デザイナーへの憧れを捨てたわけではなく、アートとデザインの垣根を軽々と超えただけなのかもしれない。
東京オリンピックや大阪の日本万国博覧会など高度経済成長期の日本は、建築家や様々なアーティストたちが巨大なスケールの未来像を描いて活躍していた。そんな時代の空気が笹山をアートの道へと背中を押したのである。東京オリンピックの屋内競技場のコミッションワークを信楽焼で制作していた岡本太郎の主力アシスタントとして、これまで培った技術を発揮していた時期でもあった。また、アメリカの有名画家・サムフランシスのオブジェの制作を手伝い、様々なコンクールで入賞するなど、アート活動にどっぷりと漬かっていた。そんな笹山に窯業試験場の平野敏三場長が「走泥社」への参加を進めた。戦後結成以来20年ほど経っていた当時の走泥社の主力メンバーだった憧れの八木一夫、鈴木治の了解で、とうとうメンバーとして参加することとなった。アンチ走泥社として活動していた笹山の本音の結果だった。その後の笹山の活動は走泥社の哲学に沿うこととなる。非常にストイックな前衛陶芸集団だったため、アートに対する姿勢、視座といったことに厳しく、巷の公募展などへの出展などは事実上禁止されていた。この参加を契機に笹山自身のインキュベートな生活が始まることとなる。走泥社というのは作家集団ではなく、芸術運動であり、その後、この運動は人間の一生のような経過をたどることになる。
『クラフトマンシップ』
笹山は、走泥社への参加をきっかけに、その後の10年間は信楽の地域産業との関わりを生活の糧としながらアートへ傾倒していった。日本の伝統である生け花の世界に前衛のオブジェ花器を制作するなど、用途や機能をまったく考慮しない立体造形を目指すという走泥社の哲学を実践していった。当時アーティストがコミッションワークを受注し制作していく場合、職人的な技術サポートや経済性などデザイン要素の強いプロセスが不可欠だった。そんな中、海外ではクラフトという言葉が陶芸の世界には使われていることを知る。岡本太郎やサムフランシスと出会う以前、既に笹山は信楽にクラフトマン協会を結成していた。複製技術によってものを大量生産していく工業化社会において、一種の手仕事であるアーティストの創造行為に敬意を込めて、クラフトマンシップという言葉を使っていた。笹山のアートとデザインの活動の中でぼやけていた意識の輪郭が徐々にはっきりしはじめてきた時期である。
1976年には大金を借金してまでメキシコで開催された世界クラフト会議(World Crafts Council.)に参加することになる。現代陶芸の第二世代となる柳原睦夫(ヤナギハラムツオ)や森野泰明(モリノタイメイ)らと合流する。
笹山はその2年後京都開催された世界クラフト会議のコーディネーターを務めることになる。そんな活動姿勢が評価され、翌年IAC(国際陶芸アカデミー・International Academy of Ceramics)の会員に推挙される。この年、笹山の芸術活動の支えであり憧れであった八木一夫が他界する。享年60歳だった。同時に、戦後30年続いてきた走泥社の運動も幼年期から青年期を経て壮年期になっていく。当初はやんちゃなアンチテーゼ集団だったが、メンバーの多くが大学教員などの社会的地位のある立場になってしまい、ある種の権威集団のような知名度を得てしまっていた。1948年に結成され、戦後の日本の現代陶芸の出発点となった運動も、その後20年老年期を経て1998年に半世紀の寿命を閉じることになる。笹山は1980年のIAC京都会議の実行委員を務め、翌年のパリでの年次総会に出席するなど、セラミックアーティストとしての地位を確立していった。その後、他の走泥社のメンバーたちと同様、京都の美術大学で教壇に立つようになる。その他、滋賀県に公共の現代美術館を新設するために県内の作家たちともに造型集団を結成、また、信楽の伝統産業活性化やまちづくり活動などの地域貢献活動にも精を出すようになる。
IACのボストン会議参加(1984年)やノルウエー国立大学に招聘されてオスロでワークショップを行う(1990年)など、グローバルに活躍していた時期でもあった。すでに50歳となった笹山は自身のアイデンティティの確立のために、走泥社からの脱退を当時の代表であった鈴木治に相談に行く。そこで鈴木から自分の穴窯を作るよう促される。信楽の原点に戻って、もう一度原始的な焼き物を勉強することを説かれた。笹山は信楽という地域と伝統の価値を意識し始めた時期であった。その後、1990年に穴窯は完成する。
日本はバブル景気に沸いていた。地方でも多くのイベントや文化施設誘致の話が持ち上がっていた。笹山の住む信楽にもその波がやってくる。世界中の現代陶芸作家を集めた世界陶芸博覧会の企画や、陶芸美術館の計画などである。既に信楽の若手作家の中でも発言権を得ていた笹山は、自分の仕事を放り出して信楽のために奔走することになる。
『コミッションワークに携わって』
1990年信楽に自然を活かした広大な芸術公園と美術館が誕生した。信楽の人々はこの時を待っていた。この施設をメイン会場として行われる予定だった世界陶芸博覧会は不慮の事故によって開催されることはなかった。笹山が信楽のために尽力した2つのプロジェクトがその時終わる。同時に笹山は新たな道を歩むことになる。
信楽は昔から大小様々な製品を焼き物で生産してきた。そんな伝統的な技術に可能性を見いだした企業が設立された。大型陶板を製造する大塚オーミ陶業である。日本最大級の製薬会社・大塚製薬がオーナーだった。永遠に朽ちない陶板で世界中のアート作品のレプリカを制作し巨大な美術館を建てることを計画していた。そしてその技術を利用して建築物へのアート作品のコミッションワークを陶板で制作するビジネスを展開することを目的としていた。笹山はこの企業の技術顧問に就任した。そこで、笹山の経験、技術、知識、人脈がいかんなく発揮されることになる。ロバート・ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)のロッキープロジェクト(ROCI)の技術担当に指名されたのは笹山だった。それまでも世界的な著名作家との恊働を経験していた笹山は臆することもなく制作に取り組んで行く。後に、大塚オーミ陶業は日本中の大型建築物や環境にコミッションワークの大型陶板を手がけていくことになる。その現場にはいつも笹山の姿があった。世界中の人々が日本を訪れる際、最初に目にする成田空港の巨大壁面陶板は笹山本人の手業の痕跡をそのまま留めている。イサム・ノグチや三宅一生、横尾忠則、磯崎新ら時代のスター作家たちとの出会いはこの企業での仕事がきっかけとなった。様々なコミッションワークに携わる傍ら、古い建物の壁面建材の再生プロジェクトにも参画していく。そこで日本の都市景観を創り出す多くの文化財の壁面建材がテラコッタでできていたことを知る。国会議事堂の屋根のテラコッタは大塚オーミ陶業が手がけている。アーティストのコミッションワークから、テラコッタを制作するスケールの大きなプロジェクトに惹かれるようになる。大塚オーミ陶業には15年間在籍しデザイン室の基礎を築きあげた。
『意識と無意識の間で』
日本の都市環境づくりに従事した日々が終わり、70歳を過ぎた晩年の笹山には、目指すものがあった。30年前、恩師の八木一夫が亡くなってすぐの頃、京都でイサム・ノグチに会う機会を得、その時彼から受けた教えである。アメリカ人でありながら日本に故郷をもつノグチのジレンマを笹山にぶつけてきた。「日本のプリミティブをもっと勉強しなさい」、「日本人のアイデンティティをもちなさい」と。その後50歳で穴窯を持ち、彼の教えを常に心に抱いてきた20年だった。穴窯でオブジェを焼きだしたころからプリミティブという言葉の意味を探し続けてきたのである。
陶芸には待ちの時間が存在する。その時間はどうしても手を下せない部分がある。しかし、意識としてのコントロールはできる。ひとつは乾燥時間、ひとつは焼成時間。その待ちのプロセスが非常に重要なのである。伝統的な穴窯という手法を取り入れたことで、その待ちという制作プロセスの「間」に潜む日本的なるものが、晩年の笹山の作風に現れている。それは意識と無意識との距離を感じさせるような圧倒的な実在感である。
すべて火に身を委ねるという、あなた任せに窯を焚くのではなく逆に火を自分の中へ引き込んで表現していく。偶然性は当然出てくるが、ある程度のイメージを持ちつつ焚くことと、完全に窯任せにできてしまったという場合では表現としては全く異なってくる。そこに意思が働いているかどうかなのである。
笹山は、球体、立方体の塊の造形を本能的に表現している。そこにはミニマリズム的な抽象化はない。定規や型を当てて削り出した直線ではなく、人が直感で直線と感じてしまうような輪郭を手の痕跡を残しながら表現している。まるで幼児期に体感した既視感のようにこれらの造形は眼に飛び込んで来る。わたしたちの遠い先祖たちの時代の造形には意味の強制はなかった。心の遊びによって悪戯な造形はあったかもしれないが、作為はなかった。近年笹山がつくりだす家の形のオブジェのシリーズは、幼児期へ回帰するノスタルジーがはたらいているのかもしれない。そんな笹山の意識と無意識の距離が消えた時、創作の核心が、笹山自身のプリミティブに到達するだろう。
滋賀県甲賀市信楽町・笹山工房にて
(2020年 DOMUS KOREA 8号掲載)
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