Innami Synthesize Planning

印南総合計画

「北の住まい設計社」の原点
 —森とともにあるものづくり

北海道で2番目に大きい都市・旭川市があるエリアは日本5大家具産地のひとつである。広大な森林を生かした木工産業が集積しており120年ほど前から家具製作が盛んに行われてきた地域だ。そんな市の中心部から東に車を走らせること30分。広々とした田園風景エリアを通り抜け、辿り着いたのが、大雪山を背景に広がる人口約8千人の東川町だ。このまちは大自然の中で小さな経済から新しい暮らしと地域づくり、人材育成、国際交流を実践している日本でも稀有な自治体である。このまちの山麓の深い森に点在する工房とショップや事務所をまるでコロニーのように構えるのが「北の住まい設計社」だ。北海道産の無垢材で、オリジナルデザインの家具製作や販売、特注家具や什器などの製作、木製建具等の住宅パーツの製作および販売を手がける会社である。自社内に店舗を設け、北欧などの生活雑貨・インテリアグッズの販売や、カフェ事業も行っている。さらには、グループ会社の「北の住まい建築研究社」では、木を生かした住宅・店舗の設計やリノベーション、エクステリアのデザインや施工なども行っている。そのグループを率いているのが代表の渡邊恭延(わたなべやすひろ)だ。
渡邉が生まれたまちは、旭川市の西の方にある陶器の窯元が点在するものづくりの職人が住む地域だった。そこは嵐山という小高い山の麓に広がる場所で、もともとアイヌの人たちが集落を築いた村だった。彼は地元の大学で意匠設計を勉強していたのだが、職能を単にビジネスとして物事を捉えるのではなく、仕事と生き方、生活の本質を見つめ直したいという思いがその頃から芽生えていた。彼がこどもの頃は、まだ舗装された道路も少ない、行き交うのは農耕馬車の時代だった。父親は東京から移住し中学校の理科の教師をしていた。そんな家庭環境で小さい頃から天塩川で魚釣りをし、山菜の宝庫でもあった森で幼少期を過ごして育った。そんな体験が、とにかく地球に負荷をかけない生き方や、自然からの恵でものづくりをしていこうと強く思うようになった。彼はその頃からこの地域で生きていくことを決めていたのだった。東京で生活したことはなかった。彼は地元の大学卒業後、まちのデザイン事務所で働いていた。働き始めて数年後、デザイン事務所のオーナーが、事務所は息子に任せて、独立して新しく家具工房を作らないかと持ちかけて来た。そのオーナーはもともと建具職人で、夢は自分の家具工房を持つことだったのだ。その工房を弱冠25歳の渡邉に任せてくれた。幸運にもパトロンを得て工房を持つことができたのだった。 
その数年後また彼に転機が訪れる。大学の恩師の紹介で憧れであったフィンランドに行くことになった。そこでの生活で見つけた答えが「自然とともに生きる」という考え方だった。この自然界には人間だけではなく、あらゆる生き物が共存している。森の木々や植物、昆虫、すべてに慈しみをもつ。そういった生き方の中で、ものづくりがしたいと考えるようになった。伝統的にはスウエーデンのデザインの影響が強いフィンランドで、いくらか野暮ったい生活臭の醸し出すデザインに惹かれていった。民族的とか様式とかと言う言葉で定義づけられるようなものではない。バイキングの末裔の人々の汗臭さが醸し出す質実剛健なものかもしれない。北欧の田舎を回ると、彼自身が生まれ育った北海道のアイヌ民族の生活スタイルにも似た風景が広がっていた。しかしいくら田舎であっても音楽や絵画に見られる美意識の奥深さには驚かされた。彼を招いてくれた小さな農家では、近所の人がそれぞれの湖畔の家からボートで集まり、夕食時には小さな演奏会が始まるというそんな日常だった。
フィンランドで勉強して帰国してから、本格的に家具を生業として生きていくことに迷いはなかった。彼には自信があった。冒険するかのような起業だとか新ビジネスとかという気持ちはなかった。北海道人として生きて行こうと。森での生活、森の恵み、森とともに働くこと、森が私たちの生活にどれだけ根ざしているのか、寄り添っているのか、そんな思いを巡らせていた。
北海道では歴史を遡ってみると、フィンランドと同様の森林資源が戦前から世界中に木材が輸出されていた。当時必要とされていた鉄道を敷設するための枕木や、生活で必要なマッチの軸などである。それほどの歴史のある恵まれた環境で木材によるものづくりを生業としたことで、生活への眼差しが醸成され、衣、食、住、トータルなライフスタイルを実現する仕事を目指すことに疑いはなかった。
世界のビジネスマーケットや経済状況を視野に入れないで、自分たちのスタイルでやって行きたい。大量生産のようにあくなき発展を追求するのではなく、クオリティの高いものを自然の素材だけでつくって永く使えるようにすれば、今のように使い捨ての消費ではなく、自然のサイクルに沿った形でのライフスタイルを提案、実現できるはずだ。木が成長するためにかかった時間だけ「もの」として生きてほしいと考えていた。エネルギーを使わず、人の手でつくるものがシンプルで温かみがあり、一番いいと思っていた。彼が目指したのは、フィンランドで見つけた暮らしのスタイル、社会の考え方に共感して、ここ北海道オリジナルの暮らしを考えることだった。
メディアが取り上げるフィンランド的なものとは、ア. アルトや、イッタラ、マリメッコ、アラビアなどすぐに企業ブランドが率先して国のイメージを作り出してしまう。フィンランドをリスペクトしていてもそのステレオタイプなイメージをトレースした暮らしをするわけではない。北海道には広大な自然の歴史はあっても、人の歴史は薄く、アイヌの人たちは自分たちも自然の一部として生活していた時、内地の人間が農耕文化を提げてやってきたわけで、北海道らしい暮らしというのは元々存在していない。
自分らしい暮らしはどのようなものかと見つめ直してみたい。そんな自分らしい居場所を探す日々だった。しかし、探しても見つからない、理想を求めても存在しない。そのことに気づいて、ここにどうしても住みたいというこだわりを捨てた時、ここに来ないかという声がかかったのだ。東川町の地域の記憶でもあった廃校の小学校を使ってみないかと。地元の人たちもこの小学校の建物を残し、この建物を活かしてくれる人はいないかと探していたのだった。地元の大学で教鞭をとっていた日系アメリカ人アーティストのマイク・ゴトウ氏が、東川町からこの小学校の建物の延命を依頼されていた。渡邉は近所づきあいのあった彼から、ほとんど命令のようにここへの移住を決められてしまったのだった。これが、彼の理想郷実現への第一歩だった。
申請許可のハードルが高かった建物の移設の認可など法規的な手続きは東川町が協力支援してくれた。理想郷の姿の輪郭が見え始めたころ、渡邉はスウェーデンからひとりデザイン系の学生を1年間招聘した。今から40年前当時の日本は外国人の滞在ビザを取得することがかなり難しく、2, 3年かけて外務省などと折衝を重ね、最終的には彼をアーティストとして招聘することができた。北海道人として北海道のアイデンティティのある暮らしを目指すと言っても、自分たちだけでは気づくことができないと考えていた。土着的な和の伝統、民族性だけが今の、そしてこれからの私たちの暮らしのアイデンティティなのだろうか。異国の文化、血をハイブリッドに取り込んでいくことで、より自分たちの個性、オリジナリティが引き立っていくのではないかと考えていた。スウェーデンから日常の暮らしの美意識を提げて来日した青年ヤコブが、私たちにそれを気づかせてくれたのだった。その時入って来たスウェーデンの血は、それまで目指していたフィンランド的な暮らしの姿の本質を、より削ぎ落とした、アノニマスな民族性と少し憧れる北欧的なテイストの種を植え付けてくれたのだった。
1年という短い期間であったが、この小さな数千人の街の人々たちとの交流によって、ともすれば閉鎖的、排他的になってしまう日本の田舎の暮らしの扉を開放し、そして自分たちの暮らしの可能性、本当の地域資源とは何か、森と生活できるということを気づかせてくれたのだった。デンマークのHYGGE(ヒュッゲ)は一種の思想的な頭で考える暮らしのスタイルなのだが、肌で感じられるスタイルを見つけたのだった。建築家A.ALTO(ア・アルト)が設計した代表的なマイレア邸であっても、当時のフィンランドの人たちは自分たちの森林資源の価値にはまだ気づいていなく、邸の建築に使用された木材は、すべて北米から輸入したものだった。湖があれば生活にボートがある。対岸まで友人の家にボートを漕いでお茶を飲みにいく。風景を独り占めして生活している。そんな日常を聞くとまるで映画の1シーンのような贅沢な生活に思われるけれども、彼らにとっては何も特別な時間ではない。しかしそこにある豊かな時間こそ彼らの暮らしの宝なのだ。その後ヤコブの一年間の東川町での成果は東京で展覧会を開催して脚光を浴びたのだった。
「北の住まい設計社」は、リゾート的な場所、風景を提供しているのではない。気取らない、特別なおもてなしをしようとしているのでもなく、スタッフが衣装を揃えることもせず、それぞれの個性で自身の暮らしの中に自然にある姿で、訪問者に寄り添うように働いている。彼らは、北海道という地域での生活の実験台になっているのかもしれない。「北の住まい設計社」が目指している自然と寄り添う日常というスタイルは、エキサイティングではないけれども静かで豊かなものでありたい。特別なものを提供、表現するべきではない。庶民の生活から遊離した工芸品を作る気はない。北海道の木を使うことは当たり前で自然なことであるべきで、それを売りにしているのではない。そして地方にいなければできないことをやりたい。環境、気候変動が著しいいまの社会で、マーケット拡大を目指すような姿勢は取らず、個人の身の丈、地域のスケールで考えた姿勢で、少しずつ無駄を削ぎ落としながらシュリンクした生活スタイルの提案を試みている。
現在「北の住まい設計社」が取り組む分野は次第に多様になってきているが、物作りについてはどんどん少量生産にシフトしている。そして、長い年月をかけて生産し、使用されて、地域の風景の一部となるように風化していくシナリオを作っているかのようだ。日本の家具産業で、すべての工程を1社で完結させているところは少ない。例えば渡邉はスウェーデンである塗装技術に出合った。自然界に存在するものだけでできている。これをなんとか取り入れたいと技術を習得して、原料を取り寄せ、日本でも同じようにできる方法を考えた。卵や水、顔料などでできた「エッグオイルテンペラ」だ。この塗装を纏った家具は、「北の住まい設計社」の、ものづくりに対する重要なメッセージとなっている。
最近、渡邉が手つかずのまま放置しておいた土地が、20数年近く経って、次第に森に成長しているそうだ。その地域の自然の気候の力で、その土地の新しい生態系が生まれている。自然、風景、森、これからの未来を作り出す子供たちを大切に寄り添っている東川町というまちで、渡邉が描いているのは、北の森に住まう人たちが作り出す暮らしの原点なのだろう。

北海道東川町・北の住まい設計社にて
(2021年DOMUS KOREA 9号掲載)

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