Innami Synthesize Planning

印南総合計画

Pattada Sardegna
 —羊飼いの沈黙とナイフ職人の情熱

地中海の真ん中に浮かぶ小さな大陸サルデーニャ島。遠く新石器時代からヌラーゲNuragheという独自の文明を有し、多くの国、民族に支配されたにもかかわらず、強いアイデンティティを守り続けてきた。6億年前に様々な地殻変動によって複雑な地形と土壌を作り上げたヨーロッパでも最古の大陸だ。神様の足跡Ichnusaと呼ばれ様々な伝説と共に8000以上の石器遺跡が残っている。イタリア半島とは全く異なる風景がここにはある。160万人が暮らす世界一長寿の大陸には人口の倍の300万頭以上の羊がいる。イタリア全土で飼育されている羊の約4割はサルデーニャにいる。そしてその羊たちと共生する羊飼いがいる。巨匠タヴィアーニ兄弟監督Fratelli Tavianiが映画「パードレ・パドローネ Padre Padrone」で、サルデーニャの伝統文化を羊飼いの家族の生活によってステレオタイプに描いたことで、いい意味でも、悪い意味でも世界に知られることとなった。保守的な厳父によって、小学校を数週間だけで退学させられ、成人するまで、一切の教育を受ける機会を奪われて文盲であったサルデーニャ島の羊飼いが、親元を離れ、教育を身につけて自立するまでの物語である。後に主人公は著名な言語学者になった。ガヴィーノ・レッダ Gavino Leddaの自伝である。世界の常識に流されない頑強なまでの自らの文化に対する執着がある。さらに、単一の文化ではない。サルド語 Lingua Sardaと呼ばれる5つの言語が混ざり合う文化なのだ。ヌオレーゼ Nuorese、ガッルレーゼ Gallurese、サッサレーゼ Sasarese、ログドレーゼ Logudorese、カンピダネーゼ Campidaneseの5つの言語がいまだに存在している。また戦前からヴェネチア地域からの移住者によって作られた計画都市があり、ヴェネト方言(ヴェネチア語)が話されている地域もある。こんな遺跡のような地理、文化がいまだに存在し続けているこの島は多くの人材を排出して来た。のちにノーベル文学賞を受賞することになるグラッツイア・デレッダ Grazia Deleddaは、自身のサルデーニャ生活の現実を退廃的に描いた。そのリアリズムはまさにサルデーニャの日常そのものだった。文明から孤立したかのようなこの島にはデカダンスを彷彿させるリアルなものづくりの文化がある。それは刃物職人たちの情熱と美意識が物語っている。
 人類が最初に創造した道具。それは、肉や木を切るための刃物だった。それは食べ物を手に入れるため、闘うため、物を作るため、つまり生きていくための道具だった。サルデーニャは多くの鉱山が存在し、イタリアにおける一大鉱業地帯であったため、古来から鉄に関わる鍛治職人ファブロFabbroたちが多くいた。門扉やフェンス、取手、手すりなどは自前で易々と作り上げてしまうような男っぽい生活習慣があった。しかし、いざ刃物となると鉄に対する意識が一変する。職人たちの意識は、手触り、肌触り、輝き、研ぎ澄まされた形状への情熱が注ぎ込まれる。羊飼いたちが孤独な日々の生活でいつもポケットに忍ばせている小さなナイフ。それは、サルデーニャに生息するミルトMirtoというリキュール酒の材料となる植物の葉を模した形状のナイフ、それはパッターダナイフと呼ばれている。Alla forma della foglia del mirto. サルデーニャの標高1000mの高地にある若干3000人が生活する小さなパッターダ村Pattadaの刃物職人たちが作り出すナイフだ。現在この村には15人の職人がこのナイフを作り続けている。ひとりひとりが0から完成までひとりで一本のナイフを完成させる。分業、協働作業はない。しかしパッターダナイフの形状は全て同じミルトの葉の形だ。形状は同じだが、手に取ると、その肌触り、鉄表面の輝き、微妙なカーブのテイストが全く異なる個性を醸し出している。各々の職人のアイデンティティが、同じ伝統と象徴の下で輝いている。異なる生まれ、家族、血筋、生活、世代の職人たちが同じナイフを志しても、そこには微妙な差異が見出される。それがこのパッターダナイフの価値と言える。多様な文化を許容してきたこの島だからこそ存在する事実だ。古来からサルデーニャで言われている言葉がある。Chentu Concasu Chentu Veritasu. 百の兜には百の真理がある。多様性を尊重し個人のアイデンティティこそがこの島の誇りなのだ。多くの羊飼いがこの象徴的なナイフを忍ばせて沈黙しているのは、生死に伴う不安や苦悩、そして運命や欲望をナイフに託して隠匿しているのかもしれない。

パッターダとの出会い

 2006年の年末、私はイタリア本土ピオンビーノ Piombinoの港からフェリーでサルデーニャ島のオルビア Olbia港を目指していた。その目的は、奇跡の刃物職人の町・パッターダ Pattadaを目指す旅だった。当時私はイタリア・ベネチアに滞在してヨーロッパの伝統的な職人研究の調査を行っていた。とりわけ原始的な伝統を堅持する刃物職人について多くの時間を割いていた。イタリアにおいて北はマニアーゴ Maniago、そしてスカルッペリア Scarperia、南はフロソローネ Frosolone各々の産地を訪れて歴史、文化、それぞれの刃物の成り立ち、市場価値、伝統的美意識などを調べていた。また刃物職人だけでなくイタリア中の都市にいる刃物研ぎ師たちの意見も参考に、刃物文化、そして生活に根ざす刃物リスペクトする意識。肉屋、靴職人、鞄職人、料理人、みな道具としての刃物は必需品だ。彼らは使用する刃物を自分で研ぐ者もいれば研ぎ師に毎日注文するものもいる。研ぎ師にとっては彼らの腕のレベルもその刃物が使い込まれた痕跡で比べることができるらしい。そんな逸話を多く聞き取りながらイタリアの刃物文化を調査していた中、当時ミラノのモンテナポレオーネ通りにあった老舗ファッション雑貨店ロレンツィ Lorenziの店主へのヒアリングを試みた。彼に無謀な質問をしてしまった。「今、イタリアで一番美しく、リスペクトできる刃物はなんですか?」彼の答えは、「パッターダのナイフだよ!」と。当時の私にはその答えに対して返答、相槌ができるほどの知識はなかった。「それはどこのナイフでしょうか?」「サルデーニャ島の羊飼いが使っているナイフだよ!」「見せてもらえませんか?お店にありますか?」店主は、「パッターダにいかないと見られないし、手に取ることも、買うこともできないよ!」と。そんな、お店で販売してないナイフがあるなんて。まずはパッターダを訪ねて、職人たちの工房を回って各々の職人と会って交渉から始まると。職人が客の刃物に対する情熱に納得すれば注文を受けてくれる。そして数年後に手に入れることができるだろうと。平均して3年、7年待たないといけない職人もいる。そんな商売、ものづくりの伝統が残って継承されている。一年に100本ほどのナイフを製作するだけで家族の生活ができている。世界中からお客は注文するために訪れ、そして数年後にまた受け取りに訪れる。店頭に並ぶことはない。そんな奇跡の文化が存在している。究極の刃物文化に出会った。そんなワクワクする気持ちを胸に、ピオンビーノの港を出港してサルデーニャ島を目指したのだった。
夜明け前のオリビア港に着いて島の中心部の山中に向かう。いくつかの山を越えて霧が晴れかかった早朝のパッターダ村の街並みが見え始めた。まるで歴史遺産の遺跡のような廃墟が並ぶ風景を思い浮かべてしまうほど静かな町が現れた。カフェが数件、小さな家族的な宿が2つ。レストランはその宿が経営している2店だけ。そんな限界集落と感じてしまうほど原始的な村だった。ここに数日滞在して刃物職人たちを尋ねることにした。イタリアの陽気な日常は感じられない。皆無口で笑顔のない羊飼いのような人見知りの人たちばかりだ。よそ者、外国人、そんな私が彼らの懐にそう簡単に入れるものでは無い。土足でヅカヅカと彼らの日常に踏み入れるわけにもいかない。高い敷居を越えつつ、彼らの暮らしに寄り添うように近づいていった。そして刃物に対する情熱を彼らに伝えたかった。私と同世代の者、父親と同世代の者たちはなかなか心を開いてくれない。若い職人たちとは少しずつコミュニケーションがとれるようになり、村の住人たちから色々と指南を受けながら、何度も工房を訪ねることを試みた。世界でも類を見ないくらい堅物の職人たちだった。彼らのプライドは、刃物という原始的な道具への理解そのものだった。村の宿のひとつ、ホテル・リベルティHotel Libertyのオーナー、トマーゾ・コルベッドゥ Tomaso Corvedduは、この村の伝説の刃物職人バローレ・フォガリッツ Barore Fogarizzu(1936-2005)が作った古いナイフをお店で使っていた。サルデーニャ名物の猪のサラミをそのナイフで切ってサービスしていた。そのナイフを手に取らせてもらい、サラミをひとかけら切らせてもらった。自身が羊飼いになって草原でサラミを切って昼ごはんを食べているような風景が脳裏に拡がった。この時、まさにパッターダナイフの本質に近づくことができたのだった。この貴重な経験が、その後職人たちの懐に入り込み彼らの日常、生の声を聞くための第一歩だった。その後、13年かけて毎年数回この村を訪れて、工房に通い、職人たちと一緒に酒を飲み、カフェに通い、彼らの家族と団欒し、製作現場に立ち会うことで、なぜパッターダナイフが奇跡なのかを少しずつ理解することができたのである。通い始めて10年目に、やっと私の情熱を理解して注文を受けてくれた職人がいた。
パッターダナイフの起源と現在

サルデーニャの刃物の歴史を遡ると、スペインにたどり着く。現在も多くのサルデーニャの人々の名前、言葉はスペイン語が起源となっている。アラブ文化に侵されたバルカン半島のスペインにはアラブの影響で生まれた刃物文化が生まれていた。その流れが到達して醸成したのがサルデーニャの刃物文化と言える。現在もトレド風サルデーニャ Toledo sarda刃物と呼ばれることは、アンダルシアAndalusiaやカスティーリア Castigliaからの影響を無視できないでいる。しかし、パッターダが独自の刃物文化に目覚めたのは1800年代にミンミーア・ベルウ Mimmia Bellu(1818-1906)とジウアンヌ・ベルウ Giuanne Bellu(1830-1908)の兄弟が羊飼いのための小さな日常ナイフを作り始めたことがきっかけだった。その後1900年代に入り、ジンツウ・カナレ・マンヌ Zintu Canale mannuがパッターダナイフの方向性を決定づけたと言える。そして彼の孫であるジンツウ・カナレ・ミノーレ Zintu Canale minore(1887-1976)が刃物職人というプロフェッショナリティとパッターダナイフのアイデンティティを確立したのである。同世代のバローレ・フォガリッツ・マンヌ Barore Fogarizzu mannu(1865-1962)はその後、マエストロとして後継者の育成、教育を行い、多くの子孫によって偉大な刃物職人家系を築くこととなる。このフォガリッツ家の家系図を1600年代まで遡って展望してみると、鍛治職人ファブロとしての職人の血筋がわかる。そして父から子へと職人精神を継承して来た流れもしっかりと確認できる。現在、バローレ・フォガリッツ・マンヌの孫であるバローレ Barore(1936-2005)の子供である、ピエロ Piero(1966- )と彼の妻のパオラ Paola(1971- )そして弟のアントニオ Antonio(1971- )、同じくバローレ・マンヌの孫であるボイテッドウBoiteddu(1943- )、ひ孫であるジャンマリオ Gianmario(1970- )、トーレ Tore(1971- )らは現在もパッターダナイフの伝統をしっかりと継承している。パッターダの職人の系譜はこれにとどまらない。フォガリッツ家のマエストロであるバローレ・マンヌの息子のバローレ Barore(1900-1978)や、同じく息子のナンネッドウ Nanneddu(1908-1999)から教えを受けた、サルバトーレ・カレドウ Salvatore Careddu(1941- )やその息子のロベルトRoberto(1969- )や、バローレ・マンヌの孫のバローレ(1936-2005)のセミナーを修了して職人となったマリア・ロザリア・デローマ Maria Rosaria Deroma(1960- )その夫であるサルバトーレ・ジャグSalvatore Giagu(1960- )とその子供たちも修行を開始している。また、古い家系であるシスティグ家も現在、ライモンド・システィグ Raimondo Sistigu(1954- )が叔父のアントニオ Antonio(1912-2001)、父親のマテオ Matteo(1917-1982)から家系のアイデンティティを受け継いでいる。職人の歴史を展望する時いつも感じる絶滅を危惧する将来への不安や危機感というものがある。しかし、元来原始的とも言えるサルデーニャ文化の中で醸成されて来たこれらパッターダの刃物職人の歴史において、情熱という火がこれからも絶えることはないだろう。

Pattada村Sardegnaにて
(2019年 DOMUS KOREA 4号掲載)

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