Innami Synthesize Planning

印南総合計画

「Hyggeな日常と北欧家具との出会い」Noritsugu ODA
 —1350脚の椅子を収集した研究者の人生 その2

I. フィンランドのアルテック(artek)や、アメリカのノル(knoll)などはどうでしょう。 アアルトが実業家としてアルテクと国策的に開発した白樺の積層曲げ材など、同じ北欧でありながらフィンランドという国は少し異なりますよね。

O. フィンランドというのはふたつの民族があります。スラブ系の人たちとノルマン系の人たち。ノルマン系の人たちは他の北欧と同様で、物をシンプルに禁欲的に捉えて質素簡素にデザインしていく文化を持っています。しかしビザンチン文化を持った民族は装飾を好んで使います。フィンランドのデザイナーにはデザイナーでありながらアートピースを製作する人が多くいます。アラビア社のように社内にアートスタジオを持ってそこでデザイナーが量産型のデザイン作業と一品生産のアート作品を制作することを勧めていたことなどを考えると、他の北欧諸国とのものづくりへの姿勢の違いが垣間見得ます。アアルトを例にとれば理解できます。建築家、実業家、家具デザイナー、プロダクトデザイナー、アーティスト。彼の油絵などをみると、画家だけでもやっていけたのではないかと思えるくらい素晴らしい作品を残しています。一つの専門に特化したデザイナーというよりも、多彩な能力を発揮するクリエイターがフィンランドは多く輩出していますね。
2年前に独立100周年でしたが、1917年ソ連邦から独立した時は、相当額の賠償金を支払っていたわけで、当時国民が一致団結して国を支えアイデンティティを守っていったわけです。デンマークやスウエーデンの場合はバイキングの時代から同様の民族だったわけで、相互扶助の考え方がなければ生きていけなかったわけです。バイキングの戦利品も平等に分けるなど、そのため平等主義的な社会システムが根付いてきて、北欧の価値観に繋がってきているのではないでしょうか。ヒュゲ的なミニマルな美意識は、冬の夜長を過ごす一つの精神性が現れています。北欧で住宅街を歩いているだけで、このヒュゲの精神を感じることができます。ほとんどの住宅の窓のカーテンは開け放しています。プライベートなリビング空間を遠慮なく眺めることができます。各家庭の見事なまでのデザインの感性を感じることができます。

I. 先生の現在の生活は、高知で生まれ育ち、大阪からこの最果ての北海道の地に移り住んできたまるでノマドのような人生を考えると、この大雪山の梺の広大な草原に立つと家の風景と、北欧家具に囲まれたインテリア空間を見る限り、ここがデンマークだと言っても誰もが信じるでしょう。このヒュゲな雰囲気は、フィン・ユール含めここに行き着いた今のこの生活は、先生の人生観が呼び寄せたのではないかと感じてしまうのですが。先生自信がこの生活を夢見ていたのか、目指していたのか、そんな考えはあったのですか。

O. 私が関西に住んでいた30代の頃までは、イタリアモダンや、ノルなどをよく使っていました。若い頃はスチールパイプの家具とか全く抵抗なかったし、新婚の頃はバルセロナチェアを家で使っていました。金属の家具というのに何ら抵抗はありませんでした。
デンマークを研究対象とし始めてから、北欧に通うようになってきて、年も重ねてきて、木の持つ暖かさ、北欧家具の持つ機能性、飽きのこないロングライフな美しさ、ほとんど半世紀の間古さを感じさせないものがほとんどです。この横にある引き違い収納カップボードは、デンマーク近代デザインの父と呼ばれたコーア・クリント(Kaare Klint)がデザインの分析の概念に基づいて作られた初めての家具です。6人用の家庭向けのものです。1930年当時70本作られたものの中でほとんどが4人用だったのですが、この6人用はわずか10本のみでした。デンマークでは4人家族用のカップボードが平均的な家庭の家具でした。空間に対して全く無駄のない寸法や棚板のトレイや引き戸の構成など、同じ外形寸法のカップボードの倍の収納能力がありました。同時代の建築家でドイツ工作連盟のアドルフ・シュネック(Adolf Gustav Schneck)もこれについて研究していますがクリントの発表の5年後でした。
収納ということについての興味は日本人として仕方のないことかもしれません。そのわけは、日本人は物持ちが一番多いと言われています。例えば食に関して言えば、あらゆる民族の食を日常で調理しています。どこの家庭に行っても食器類や調理器具に多様な機能が要求されています。本来なら自国の食生活の道具だけで生活できることが常識であるはずなのに、日本では自国の食器類の方がマイノリティです。クリントは当時のデンマークの平均的な家庭の使用する道具類の数や使用方法、寸法測定など、今でいう考現学的な研究を徹底的に行っていたのです。そこで一番ふさわしい収納家具とはどういうものなのかという合理的な関係を研究デザインしていたのです。そういう視点で、椅子の分析も行っていたわけです。平均的な体格の人間を選定して人間工学的な研究をしていました。その研究を世界で最も早く完成させたのがクリントだったのです。

I. 当時これらの家具はどういう企業が、どういう製作方法で、どういうマーケットに、どういう販売方法をされていたのでしょうか?今で言う商社、問屋はあったのでしょうか。デザイナーにはロイヤリティ契約はされていたのでしょうか。また、企業の責任として、耐久試験やPL法的なものはあったのでしょうか。消費者の自己責任と、企業の信頼というものが一体となっていたのでしょうか。

O. この頃は、ルドルフ・ラスムッセン(Rudolf Rasmussen)というデンマークで一番歴史のある家具メーカーが製作していました。この企業の家具はほとんど、コーア・クリントがデザインを提供して、会社のロゴタイプなども担当していました。この企業のマーケットはデンマークの上流階級のみへのマーケットでした。ですから製作数も何百というようなことはありませんでした。最高の材料を使って、最高の技術を使って制作されていました。昔私がこの企業を訪れた時、芳名録がありました。そこには、歴代のアメリカの大統領や、日本の歴代の首相や、天皇陛下のお名前までありました。VIP相手の商売だったのです。つまり企業は絶対的な保証を担保しなければならない相手に向けての商売だったのです。
そのラスムッセンの対局にある企業は、FDBというデンマーク生活協同組合・いわゆる今のCOOPです。ここはコーア・クリントの愛弟子だった、ボーエ・モーエンセン(Borge Mogensen)がそこの責任者として庶民のための家具のデザイン製作を行いました。日常づかいの飽きのこなく、堅牢に製作されていました。そしてより美しく、より安く。当たり前のことを、コーア・クリントの教えとして、彼の分析手法のノウハウは身体に染み付いていましたから、全て合理的な寸法で次々とインテリア家具を発表していきました。同郷で同い年の仲の良かったハンス・J・ウエグナーやグレーテ・メイヤー(Grethe Meyer)らに協力も依頼しています。他にも多くの著名なデザイナーも参加していました。そこで一般庶民の生活文化を美意識と共に醸成させて行ったのです。ラスムッセン的な企業とFDBのような企業が同時にデンマークの家具の歴史を作って行ったのです。

I. 当時のデンマークでは、三方良し的な、作り手、買い手、そして社会が皆豊かになることができていたわけですね。

O. そうです。しかし、その後、世界に評価されたことで、あぐらをかいてしまい、職人の人材育成を怠り、植林を怠り、デザイナーも若い人への教育を怠ってしまったのです。デンマークデザインカウンシルが認証していた検査をすり抜けてまがい物を販売する不心得者も出てきたりして、デンマーク家具の信用も低下して行ったわけです。

I. 先生は最近のジェネリック品・リプロダクト製品についてはどのように考えていますか?

O. 極めて問題が大きいと思います。ジェネリックデザインという言葉を生み出したある企業があります。コピー商品、イミテーションは安くないと売れないわけです。つまり材料、生産方法など簡略化、つまり手を抜かないとできないわけです。現在行われている立体商標登録というのはかなりハードルが高くてこれまで登録ができたのは、ハンス・J・ウエグナーのYチェアと、柳宗理(Yanagi Souri)のバタフライチェアの2脚のみです。

I. オリジナルであっても時代の変遷によって製作方法が変更されたり、初期のプロトタイプや初期ロットのものからかなり変更されたりする場合がありますよね。先生はそのことについてはどのように考えますか。

O. 例えばデザイナーが存命中の場合であれば、新しい機械や製作方法が開発されたことにより、デザイナーに相談をすることがあります。すでにデザイナーが亡くなっていた場合も、その著作権の相続人が認める場合があります。アルネ・ヤコブセン(Arne Jacobsen)のアントチェアは、オリジナルは3本足でした。アメリカではPL法で3本脚は禁止されました。アントチェアについてはヤコブセンが亡くなった後、奥さんが4本脚の許可を出してしまいました。
例えばメーカーの中で、ニールス・ボッダー工房(Niels Vodder)で製作されたもので、初期のもの1944年から48年の暮れまで働いていた人を取材したことがあるのですが、当時は、一人の職人が一つの作品を任されたそうです。その職人が引退すると別の職人が担当するわけです。時代によって微妙に寸法やテイストに違いが出てしまいます。これはある意味防ぎようがないことだったのです。しかし、作り方としては同じ作り方を継承していました。今現在、ハンス・J・ウエグナーの椅子はPPモブラー社(PP mobler)が製作していますが、以前はヨハネス・ハンセン社(Johannes Hansen)が製作していました。PPモブラーが引き継いだ際、それまでのものを分解して調べてみたら、見えない箇所にかなり不道徳的な作り方の痕も発見されたそうです。これを見せられたとき、ヴィンテージのものが絶対いいものだとは決して言えないなと感じました。いかに情熱を持って誠実にものを作るか、そう今のメーカーが真摯に向き合うことが、本物のモノづくりへの誇りを持てることだと思います。
ライフスタイルは私たちアジア人のように床生活をしてきた民族もいます。様々な日常が西洋化し、また人々の寿命が長くなり高齢化した時の生活スタイルには、道具として支持具としての椅子は不可欠なものになっています。椅子で暮らすことを考えたら、床で暮らすことには戻れなくなっています。また若者の体型も変化してきています。床文化のアジア人である私がデンマークで最初のハンス・J・ウエグナー賞をいただくことになったのも、デンマークの価値観であったり、あるいは美意識であったり、もっというとデンマーク人の生き方に共感して、見習うべきことが多いと考え約半世紀寄り添いリスペクトしてきたことを評価してくれたものだと考えています。
今世界が抱えている大きな問題があります。環境の問題、教育の問題、福祉の問題、高齢化などありとあらゆることが、デンマークだけでなく北欧は、1960年代から問題を察知して意識を持って解決してきた歴史があります。そして自分たちの幸福実感度の高さを維持し続けています。私は現在、デンマークの郊外のような風景のこの北海道で、ヒュッゲな日常を彼らの作り出した家具とともに暮らしています。

北海道旭川市郊外の東神楽町の織田邸にてインタビュー
(2019年DOMUS KOREA 3号掲載)

織田憲嗣 Noritsugu ODA (1946年- )
日本の四国にある高知県で生まれる。宮内庁に務める家族の元で育つ。明治維新、土佐藩と呼ばれたこの地域からは坂本龍馬をはじめとする多くの志士や政治家、学者らを生んだ土地柄だった。破天荒な中高生時代を経て、郷里を離れて大阪の美大に進学する。そこでグラフィックデザイン、イラストレーション、広告などを学ぶ。当時の日本の大学のデザイン教育は、基礎造形がメインで、バウハウスの理論とカリキュラムを取り入れていた。大学で頭角を現し、卒業後当時日本の企業内デザイナー職としてはトップクラスだった百貨店・高島屋の宣伝部に入社する。
数年後企業内デザイナーとしての縛りに満足できず、契約社員になることを選び、外部からの仕事を兼業することでフリーランスとしての収入を多く得ることになる。その頃から彼のモノへの審美眼が芽生えることとなる。収入をことごとく家具や書籍の購入に投入し始めたのである。彼のコレクションの創世記である。多くの名作椅子の出会いが彼の人生を方向付けたのである。
その後、1991年、北海道旭川市の美術大学に教員として招聘され、それらコレクションの研究とさらなる収集に邁進する。それまでにすでに800脚近い椅子のコレクションに膨れ上がっていた。それらを広大な土地のある北海道に運び新たな生活が始まったのである。すでに木製家具の産地だった旭川で彼のコレクションを使って国際デザイン展や椅子のコンペティションを企画して、地域の家具産業へも貢献していった。
同時に研究対象であった北欧との繋がりはますます強くなり、1997年アジアでは初めてのデンマーク家具賞を受賞する。この賞はデンマーク家具協同組合から毎年ひとりデンマーク家具に功績のあった人物に授与されるもので、過去にはハンス・J・ウェグナーも授与されている。そして2012年にはデンマーク、フィン・ユール協会の名誉理事に就任する。2015年には、ハンス・J・ウェグナーに関する研究が評価され、ウェグナーの出身地であるトナー美術館より第一回ウェグナー賞を授与される。彼の膨大なコレクションを彼が現在暮らす北海道東川町が5ヶ年計画で公有化することが決まり、現在分類整理が開始されている。彼が夢見る日本初のデザインミュージアム構想への第一歩となっている。

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