Innami Synthesize Planning

印南総合計画

「Hyggeな日常と北欧家具との出会い」Noritsugu ODA
 —1350脚の椅子を収集した研究者の人生 その1

(O=Noritsugu ODA 織田憲嗣, I=Hiroshi Innami 印南比呂志)

I. 織田憲嗣先生が半世紀に渡って収集した膨大な世界の生活道具のコレクションについて、そして織田憲嗣先生の視線の先にあるもの、コレクションの大多数を締める北欧デンマークのデザインとそのヒュッゲHyggeな日常。その中でも特にコーア・クリント(Kaare Klint)やフィン・ユール(Finn. Juhl)の哲学からの見えてくるものなどをお聞きします。

O. フィン・ユールさんとの経緯について少しお話しします。1980年初頭、当時のデンマーク家具業界はメーカーや工場の閉鎖が相次ぎ危機的な状況でした。私たちはその危機感からどうにかしてデンマークの家具や文献などの調査をして残しておかなければ手遅れになるのではと情報収集のために1984年夏、現地に赴いたのです。
フィン・ユールさんとコンタクトを取るためにあらゆる方法を探しました。当時の日本では彼のことを知っている人やメディアはほとんどありませんでした。かなりのデンマーク通の人であっても、ああ、彼はアルコール中毒で亡くなったとか、そんな埃を被ったような椅子を調べてどうするのだ?などと嘲笑され、否定的な意見ばかりでした。デンマーク国内でも彼のことを評価している人はあまりいませんでした。彼に関する本も一冊も出版されていませんでした。それでもなんとかコンタクトが取れて会うことができました。そこから彼やハンス・J・ウエグナー(Hans J. Wegner)との交流が始まりました。その後、彼の取材に度々デンマークを訪れるようになりました。
そして1989年彼と会うために友人たちとデンマークに訪れた5月17日、空港に着き入国手続きを終え、彼にかけたアポの電話で彼の訃報を知りました。77歳でした。実は私は7月7日生まれです。同じ7と7という数字に何か赤い糸を感じています。そういった思いが特に彼に対してはあります。前年にお会いした時に撮影した彼の後ろ姿の写真が永遠の別れとなってしまいました。友人たちと企画を進め訃報の1年後、彼の命日に追悼展を日本で開催しました。大阪を皮切りに京都、名古屋、東京、旭川と巡回しました。オープニングには奥様や彼の妹も来日されました。日本での話題が本国に伝わり、それがきっかけになって、デンマークでは彼の価値に気づき始め、彼の業績の見直しが始まるようになったわけです。

I. 当時はすでにフィン・ユールの椅子は日本に入っていたのですか?

O. かつては入っていました。しかしかなり高価なものでした。デンマークの国内でも椅子の市場では一番高価なものだったのではないでしょうか。ハンス・J・ウエグナーのものよりもはるかに高かったです。

I. 例えば日本のデザイナーが彼から影響を受けてデザインをした椅子などはなかったのでしょうか。例えば剣持勇(Kenmochi Isamu)さんがイームズから影響を受けてシェルチェアなどをデザインしていますよね!

O. はい、ありました。1952年頃の雑誌「工芸ニュース」で、フィン・ユールのことが紹介されていました。白木屋で初めて北欧展が開催された時に、フィン・ユールの椅子が輸入され、そのことを評論している記事が載っていました。また、その頃は北欧のデザイン雑誌も多く輸入されていましたので、そこに彼の作品が掲載れていました。
私が初めて彼の椅子を見たのは、湯川家具(Yukawa kagu)のショールームだったと思います。1960年代スウェーデンの大手家具販売店イケア(IKEA)と日本代理店契約を結び当時のインテリア業界を先行していた家具販売会社でした。その後買収されてアクタスになりますが。その青山サロンでフィン・ユールの45番の椅子を見て、感動したわけです。なんと美しい椅子か。チーフティンチェアーは、友人がデンマーク土産で買ってきてくれたカタログに載っていたのを見て衝撃を受けました。堂々として威厳のあるこんな椅子は見たことがないと。
椅子とは最も人間に近い道具です。例えば、肘とか、背とか、尻とか、脚とか、人間の身体と同様の名称が付いています。まさに擬人的な道具なのです。椅子という道具にお世話になっている時間は、人生歩いている時以外ほとんど椅子にお世話になっています。ベッドも椅子の仲間です。ステッキも同様です。ブランコのように上からぶら下げられた椅子もあります。体を委ねるという、体を受け止めさせる支持具が物理的な椅子の意味でもあります。もう一つは地位を表すという精神的、社会的意味です。この二つの意味は全世界の椅子の定義には書かれています。この二つの意味は椅子の誕生の時からすでに決定されていました。太古の昔、原始時代から。人類が4本足から2足歩行に移行した時、全体重を2本の足で支えることの辛さ、そのために腰をかけたのです。それが倒木であったのか、適当な石であったのか、しかしその石も全てのものが座ることができたわけではなく、その集団の中で一番強い、いわゆる地位の高いものだけが座ることができたわけです。他の一族は地べたにしゃがんでいたわけです。そこですでに権威の象徴としての道具になっていました。体の支持具としての機能と同時発生したわけです。

I. 先生の椅子への興味、コレクションが北欧に向けられている理由は何かありますか。

O. 1980年ごろに、京都市立芸術大学で家具のデザインを教えていた妹尾衣子氏(Senou Kinuko)と写真家の林義雄(Hayashi Yoshio)さんと3人でチェアーズというプライベートな椅子の研究室を設立しました。財政的には皆持ち出しで、そして利益を生まない趣味的なものでしたが。私は大阪でフリーランスのデザイン事務所を経営していた頃です。そこで椅子の研究を始めた時、今一番取り上げるべき国はどこかという議論をしました。1980年当時は、すでに北欧ブームは過ぎ去ってしまっており、1960年代後半で下火になっていました。1970年代からはイタリアモダンが台頭します。石油系の材料が実用化されて、それまで不可能と思われていた構造や形態が自由になり発想が大きく広がってユニークな椅子が多く出現しました。
それで、世界の目というものがイタリアモダンにどんどん注目するようになりました。北欧はどんどん廃れていって、工場などは閉鎖が相次ぐようになります。また職人の高齢化、人材育成を怠り、あるいは南洋材資源が枯渇して行きました。ブラジリアンローズウッドや、キューバンマホガニーなどです。将来を見据えた植林ということをやってきていなかったわけです。そしてワシントン条約でそれらの材木は取引が禁止されるようになりました。そんな状況下でデザイナーのアイデアの枯渇ということも叫ばれるようになりました。デザイナーが過去の自分を越えられなくなった。こういう状況下にフィン・ユールもいたわけです。そんな時代の北欧にはいいデザインが生まれなくなった。そして商品が高騰化していくわけです。消費者が離れていきました。そんな悪循環が繰り返される時代でした。今、この状況を救わないとデンマークのデザイン、ものづくりは取り返しのつかないことになるのではないか、そういう時期でした。
当時デンマークに留学していた学生や駐在していた企業人などにコンタクトをとり、輸入商社の方々に取材すると、今デンマークに行ったところで何も無いと。何も研究対象になるものなんて無いと。しかし、実際に訪れてみると、あったのです。私は幸運だったのかもしれません。誰もが見向きもしないところに行ったわけで、お店や古書店には貴重なものが二束三文で積み上げられていました。1800年代の建築誌の初版本や、デンマークのデザインに関する書籍など宝のようなものが見向きもされず埃をかぶっていました。そう行ったものを大量に手に入れることができました。椅子に関してもメーカーは閉鎖した後だったのですがデッドストックがまだまだ残っていました。私にとっての北欧研究はこのような時代背景のおかげで、幸運にも恵まれた環境となったわけです。

I. 1970年代当時のデザインの潮流、マーケットを席巻していたイタリアモダンと、石油系素材を生かしたデザイナーが多く生まれてきます。そしてポストモダンの潮流が冷めてくる頃、北欧モダンの再起が芽生え始めます。それはなぜだったのでしょうか?

O. 私が初めてデンマークを訪れたのは半世紀前になります。1969年です。イギリスに行った帰りに立ち寄りました。当時私は男性ファッションのデザイナーになりたいと紳士服の伝統を勉強しにイギリスを訪れていました。その帰りでした。そこでデンマークの魅力に取り憑かれ、通うようになりました。
現在ならフィン・ユールの45番などは4〜500万円で取引されていますが、当時は3万円くらいでした。あり得ないような価格でした。誰も注目しないために、誰も欲しがらない、つまり価格もないわけです。そんな状況下で自分の直感を信じて持てる財産を全て注ぎ込んで椅子を買い集めました。イタリアのものも当時は私もとても気に入っていましたが、すでに一つの潮流が生まれており、マーケットも席巻していましたし、あの誘惑に溺れていたら人生を食いつぶしていたかもしれません。イタリアの魅惑に対して北欧の禁欲さを選んだことも私の人生のターニングポイントでした。こんな時代に巡り会えたことが私の椅子研究コレクターの人生を決定づけたのかもしれません。
今では手に入れることができないほど高価なものになってしまった実物を多く所有しています。そんな実物を見て触れて使って研究することで、研究者としての成功にも繋がって行きました。例えば70年代のイタリアモダンの時代のデザイナーの中でも素材や技術の進歩に挑戦し寄り添えたデザイナーだけが成功して行ったわけです。研究者にしても同じです。技術が完成してからでは、遅く、社会が価値を認めてからでは遅いわけです。
イタリアの椅子のコレクションも北欧の次に多くありますが、半世紀前に集めたものばかりです。北欧はエンドユーザーとデザイナーのコミュニケーションの中でデザインが生まれてきました。イタリアはデザイナーと企業のマーティングによるブランディングがものの価値を生んできました。そしてジャーナリズムが先行して流行を作りバイヤーが国際的にマーケットを作って行きました。しかし流行が過ぎ去ると商品はどんどん廃番となっていったわけです。ポストモダンという時代を消費して時代はロングセラーな飽きない質実剛健な道具に傾いていったのです。現在はイタリアでもカッシーナ(cassina)のマエストロシリーズやB&Bのソファーのように富裕層のみを意識したロングセラーなマーケット戦略を行っている企業が多いですね。

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