Innami Synthesize Planning

印南総合計画

「厚岸・熟成のための風景と共に」・ウイスキーの聖地を目指して

人類は太古の時代より蒸溜という技術を生み出し、その恵は命の水(aqua vitaeアクア・ヴィテ)と呼ばれていた。その恵みは人間の欲望に揉まれ、歴史の大海原を渡り、政治的な戦い、そして力強い風景の中でウイスキー(ゲール語の命の水uisce beatha)として醸成していった。それらはまるで錬金術の副産物のようでもあった。過酷な風景の中ほどその恵みはミステリアスでロマンチックな熟成を経て、一部は神への畏敬の念として天使にも分け与えていた(angel’s share)。蒸留技術によって生まれた多くのお酒の中で、ウイスキーはイギリスを中心に世界中に広まり、職人たちのクラフトマンシップ的情熱によっての地域性を生んだ。それらは様々な異なる土地の気候と風景に育まれた穀物、水、空気、風、土を恵として、その土地の命の水となっていった。

ジャパニーズウイスキーの始まり

日本に初めてウイスキーがもたらされたのは江戸時代末期に一部の開港していた外国人居留地において流通していたものと言われている。1860年まさに日本の社会が揺れていた安政の大獄の時に横浜に開業した、日本初の西洋式ホテルにおいても出されていた。19世紀の半ばイギリスにおいて酒税法が改正され、近代的な蒸溜機が発明され工業生産品の如く世界にマーケットを広げていた頃だった。
それから半世紀後、日本でも本格的なウイスキーを製造しようといくつかの酒造メーカーが行動を起こした。竹鶴政孝が1918年にスコットランドに渡りグラスゴー大学で学びながらウイスキーづくりの実習を経験して帰国する。最初に設立された蒸溜所は京都に程近い山崎という千利休が茶室を設けた場所でもあった。水の良さと霧が立ち込める立地からウイスキーづくりに適した場所でもあった。1929年、日本初の国産のウイスキーが生まれた。その後竹鶴は1934年北海道余市町に蒸留所を設立する。スコットランドにも引けを取らない過酷な気候。そして自然と一体となった風景の恵みから育まれるウイスキーは北海道の命の水となった。
戦後の占領下を経て高度経済成長期には日本中に雨後の筍の如く多くの蒸留所が設立される。カクテルやハイボールなど日本人の独特のウイスキーの飲み方が広まり需要が高まっていった。この時代、日本人がリスペクトしたスコットランドのウイスキーづくりの精神は次第に忘れ去られていた。
しかし近年小さなマイクロ蒸溜所が次々と生まれている。「クラフト」と呼ばれる個性豊かなスピリッツが世界のトレンドになってきている。ビールやワインなどの醸造酒だけでなく、それらはまさにウイスキーづくりの先駆者たちが愛したスコットランドのクラフトマンシップや、日本の地域資源の価値に気がついた人々が新たな行動を起こし始めているのだ。現在、日本全国に27箇所の蒸溜所がそれぞれ個性溢れる土地で命の水を抽出している。 

アイラモルトへの道

ウイスキーの産地は世界中にある。その中でもスコットランド西部に島、アイラ島で生まれるモルトウイスキーはその独特な潮の香りとピート(泥炭)臭のあるスモーキーフレーバーが醸し出す刺激は、その地域の風景や食べ物と一体となって世界の憧れとなっている。
そんなスコットランドの地酒との出会いから、この島の風景、資源に魅せられた一人の男性が、10年前から日本中を旅して蒸留所に適した土地を探し求めていた。彼の夢はアイラモルトを日本でつくることだった。アイラモルトは彼にとって、ウイスキーのことではなく思想とも言える彼自身の哲学だった。彼の名前は樋田恵一(toita keiichi)現在54歳だ。東京で小さな商社「堅展実業kenten jitsugyo」を営んでいる。
結果的に彼がここ以外には考えられないと選んだ土地は、北海道の厚岸町(akkeshi)だった。ラムサール条約(水鳥湿地保全条約)にも登録されている別海辺牛湿原(bekkaibeu)に隣接する土地である。エゾ鹿やヒグマも出没し、湿原にはタンチョウヅルやオジロワシなども飛来する。水源のホマカイ川に流れる水は、まさにアイラ島のごとくピート層を経て湧き出た茶褐色をしている。ミズナラの原生林に浸み込んだ雨がピート層を通って湧き出ている。水の硬度もアイラ島と同じくらいだ。厚岸の海の海藻の影響を受けたピートと、内陸の高層湿原地帯の牧草地のピートの個性を併せ持った大地の恵みから生まれるピーテッドモルトが想像できる。そして夏は25度前後、冬は氷点下20度前後に達する過酷な寒暖差は他の日本の地域には無い厚岸の大きな特徴だ。ミネラルをたっぷりと含んだ海霧が熟成庫に降り注ぐ湿潤な気候が原酒の熟成には欠かせない。また、アイラ島では牡蠣の養殖が盛んなのだが、ここ厚岸のアッケシという名前は北海道の先住民であるアイヌ民族の言葉で、「牡蠣が獲れる土地」という意味なのだ。年中通して牡蠣が採れる日本有数の産地なのだ。地球の果てにこれだけ離れた似た二つの土地があるだろうか。熟成環境、風景、水、そして作り手の情熱。
2013年樋田はこの土地に小さな貯蔵庫を建設した。国内2カ所の蒸溜所で樽詰めされた2種類のニューメイクを仕入れて試験的に熟成を行った。そこで数年熟成させた原酒は、彼の自信を確信へと変えた。この土地はまるでウイスキー造りのために用意されたような土地だった。彼は理想郷を見つけたのだった。

クラフトマンシップとの出会い

蒸留所の建設資金は樋田が社長と務める商社が全て捻出した。銀行やクラウドファウンディングなどの資金繰りはおこなっていない。ウイスキーづくりは、それらが商品となるまでの数年間のキャッシュフローはビジネスとは程遠いものとなってしまう。しかし高品質なブランドを確立するためにはビジネスライクなプレッシャーとの戦いでもあった。投資を回収するためには最初は輸入原酒をブレンドした商品を販売して売り上げを確保したりするものだが、彼の揺るぎのないミッションはすでに確立していた。蒸留所の建設計画が始まった。生産機能の心臓とも言える蒸留器の製作は彼にとって、スコットランドのフォーサイス社以外には考えられなかった。スコットランドの北部、スペイサイドのロセス村にその会社はあった。世界的な蒸留所の多くを手掛け、現在でも専門の職人たちとともに家族経営を続けているまさにクラフトマンシップの鏡のような会社だ。樋田が交渉を始めた時期、フォーサイス社では史上最大規模のビッグプロジェクトを抱えていた。マッカランのために36基、グレンリベットには14基のポットスチルを製造する計画が進んでいた。厚岸が交渉していた2基の製造など、門前払いの状態だった。マッカランやグレンリベットなど同地域での建設とは違い、まるで地球の裏側まで行って建設するなど、この時期交渉以前の問題だった。そしてフォーサイス社の誇りは、自分たちが製造した蒸留所から、常に世界最高のウイスキーが生まれてくることが条件だっだ。名も無い、経験もない新興メーカーに対する不信感も同様に感じていたのだろう。しかし、近年のジャパニーズウイスキーの世界的な評価を彼らが知らないはずはなかった。樋田はすでに日本の有名蒸溜所のブレンダーたちとの繋がりを持っていた。そんな政治力がフォーサイス社の腰を上げさせ、本来なら納品までに4年かかると交渉されていたのだが、樋田の情熱と当時のジャパンワンチームの説得で幸運にも2年で製造納品の契約をすることができたのだった。全ての機器の製造と蒸溜所の設計から試験蒸溜、指導まで全てをフォーサイス社に委託した。フォーサイス社にとっても一から蒸溜所のプランニングに参加して指導まで行うことは初めての経験だった。2015年には蒸留所の建物の建設が始まった。2016年7月末にはスコットランドから蒸留設備が船で到着し、屈強な腕利き職人たちが入れ替わりで来日し設置組み立て作業が始まった。厚岸町駅前の小さなホテルが彼らの宿舎となった。数ヶ月に渡ってフルラインの機器の設置、稼働試験の作業を行った。完了すると10月には機器の使用方法、メンテナンスなどの指南を行うチームがフォーサイス社から到着し蒸溜に着手した。その後、厚岸のスタッフだけの作業が始まった。新たな厚岸劇場の幕開けだった。11月にはニューポットを無事抽出した。創業スタッフ立崎勝幸(tatsuzaki katsuyuki)は社長の樋田が本業の食品原材料輸入業の現場で出会った大手乳業メーカーの製品管理技術者だった。ヨーグルトや乳酸菌を専門に扱った品質管理のプロだった。立崎のものづくりへの情熱と真摯な性格を知ることで、蒸溜所の工場長兼チーフブレンダーとして招いたのだった。そして蒸溜責任者となったのは大学を卒業したばかりの田中隆志(tanaka takashi)だった。彼は北海道の大学で学んだ専門とウイスキーへの憧れから、樋田を口説いて創業に参加した若者だ。樋田とともにスコットランドのフォーサイス社が手掛けた蒸留所を巡り、現地に残り視察を続けた。

厚岸モルトの夢

この土地の寒暖差と湿度は熟成を早める。そして天使たちが普通の熟成時の2倍のエンジェルシェアを持っていってしまう。この肥沃な大地からいただいた多くの恵みを、贈り物として倍返ししていると考えればいい。
蒸留を開始して1年足らずでダンネージ式の貯蔵庫が満杯になってしまう。2017年には隣地に第2熟成庫、2018年には海と厚岸の町を見下ろす高台に第3熟成庫と次々と建設が進んだ。同時に2018年待望の第1号商品NEW BORN FOUNDATION・1が発売される。まだウイスキーではないがすでに厚岸の土地のDNAをふんだんに醸し出す驚きの1本だ。それは厚岸蒸溜所の創成期を象徴する1本だった。
その後2年間でNEW BORN FOUNDATION・4まで発売され、2020年最初のウイスキーSARORUNKAMUY(アイヌ語で湿地にいる神)が発売された。第4熟成庫も完成し蒸溜所としての血流が回り始めた。樋田は常に未来を見据えている。これから次々と輩出していくウイスキーが同じミッションの中で繋がり、厚岸ブランドの歴史を築くことなのである。
樋田は、時間、季節の流れを、太陰暦でもなく太陽暦でもなく、古代中国で考案された二十四節気という暦を指標としてこれから3ヶ月ごとに厚岸モルトを作っていくことを計画している。6年後に24本のモルトが発売完了する時、全て地元産の恵みでモルトを生産開始できる構想を立てているようだ。既に大麦の栽培も始まっている。厚岸の大地のエキスをふんだんに吸った大麦が育ちつつある。町内の森からは樹齢200年を超えるミズナラの樹を伐採して試験的に木樽の生産も進んでいる。
2020年秋についに二十四節気のひとつ「寒露kanro」と名付けられたフルボトルのシングルモルトがリリースされた。オール厚岸の恵みで、厚岸の気候、風景資源が作り出すAKKESHI モルトの伝説に向かって歩み始めている。


厚岸蒸留所(オーナー:堅展実業社長:樋田恵一 kentenjitsugyo toita keiichi)

食品原材料の輸入や酒類の輸出を手がける商社である堅展実業(東京都千代田区)が2014年に北海道の道東地区である厚岸町に設立し2016年から操業を開始した蒸留所である。
厚岸町と事業実施協定書を結び、町の地域資源を生かした、オールジャパン・オール北海道・オール厚岸町のウイスキーを目指している。スコットランドのフォーサイス社によって手掛けられた蒸留所施設は、敷地面積は2960㎡で、発酵槽6基、蒸留器2基、山側に2棟の熟成庫、海を望む高台に熟成庫2棟を設置している。
北海道では余市のニッカウイスキーに次ぐ80年ぶりの蒸留所である。日本の青年・竹鶴政孝(taketsuru masataka)がスコットランドで学んだ2冊のノートを携えて帰国してからちょうど100年目にあたる。

(2021年DOMUS KOREA 10号掲載)

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