Innami Synthesize Planning

印南総合計画

「ひとに寄り添いながら、エイジングしていくモノづくり」
 m+ 村上雄一郎 Yuichiro Murakami (革職人・デザイナー・建築家)

村上雄一郎は東北の地方都市・大船渡市(ofunato)にある海の見える高台の家で1969年に生まれる。中学校を卒業するまで、このまちで父親と2人で過ごす。教師をしていた母と姉は遠く離れた東京近郊のまちで生活していた。文武両道の神童として地元では評判の優秀な生徒で、卓球では県代表となるほどの腕前だった。地元の中学校を卒業と同時に東京に出る。日本で最難関と言われている、開成高校、慶応義塾、早稲田学院、全ての高校を受験し合格する。そして、早稲田学院を選択する。大学への受験戦争に照準を合わせた開成高校や、お金持ちのお坊ちゃんばかりの慶應義塾の校風が合わないという理由だった。その後、エスカレーター式に早稲田大学に入学する。そこで建築を志すこととなる。
大学ではさほど何かを志すというような気持ちは湧かず、エリートコースのゼミは選択しなかった。しかし当時建築設計の分野にコンピューターやITの技術がどんどん導入されはじめた時代でもあり、彼の研究室は地道にその分野を進めていた。それは設計・デザインのプロセスを考えるきっかけにもなった。大学院への進学は断念して、卒業後は恩師から勧められるままにGKデザイングループに入所する。当時の日本はバブル景気に湧いていた時代で、大学卒業後は志望する企業や職は簡単に見つけることができた。GKデザイングループは日本最古参の大手デザイン企業ではあったが、早稲田大学卒業の人材にとっては、あまり自慢できるような大企業ではなかったが、大学生活を延長するような研究環境を感じる企業でもあった。同期で入社した10名もそれぞれ個性的な連中ばかりだった。建築、プロダクト、ランドスケープなど幅広い専門の仲間と、デザインコンサルタント業務を皮切りに、都市計画、環境デザイン、建築設計に携わっていく。ほとんどが公共の都市環境の中での行政とのプロジェクトだった。
そんな中、コンサルタントという、モノづくりとはかけ離れた虚構的な仕事や、身の丈サイズを超えたスケールの仕事などに関わっていく中で、少しずつ彼の心の中には疑問や不安が芽生え始めていた。仕事の合間に趣味で始めた革小物制作や、古いバルナック式カメラでの撮影をしている時間が、自分の肌に会うことを感じ始めていた。彼がGKで最後に担当した神奈川県川崎市の駅前計画のプロジェクトは、かなりスケールの大きいものではあったが、鳥が空から俯瞰するような計画ではなく、近景への視点を大切にした実際に歩いていて気づく歩道の手摺りや、サインの視認性、床面の素材など、人々の感性や肌触りを意識した計画を手がけた。この頃から素材に対する興味がものづくりの中心となっていた。革、鉄、木、この3つの素材はどれも使い込まれてエイジングすることで魅力や価値が上がる素材に魅かれていった。

1997年にGKを離れる。建築の仕事といっても、全てを自分で設計できるわけもなく、多くの他人の場所に、個人の、企業の、そして税金を使って、大工、工務店、ゼネコンに託して作ってもらう。クライアントからは喜ばれることもあるし、なんらかの受賞をすることもあるし、社会的に認められてやり甲斐もある仕事だったのだが、なぜかそんな環境にモヤモヤし始めたのだ。「実感があまりわかないんです。それにモノに対して潔くないというか」という彼の一言が物語っていた。
GK時代に上司だった印南比呂志が主宰していたInnami Synthesize Planningで建築設計を手伝いつつ、イタリア行きの準備を始める。目的は革鞄の制作を勉強するためだったが、先ずは現地での滞在許可を得るためにフィレンツエ大学の建築学部に席を置くことにした。当時のフィレンツエ大学にはPaolo Zermaniが建築学部のスタイルを作り出してかなり魅力的な教育が行われていたが、大学の授業や研究室に訪れることはほとんどなかった。
当時イタリアのトスカーナ州には革職人になるための職業訓練学校があった。Centro di Formazione Professionale di San Colombano. そこには外国人枠のような制度があり、1年間学費無償で学ぶことができた。2名の定員枠に数十名の応募があったが、入学試験の時期がなんらかのトラブルで大幅に遅れて、ほとんどの外国からの応募者が諦めて帰国してしまったために、運良く入学することができたのだ。この学校で学ぶかたわら、デザインコンペに参加して受賞を重ねて行く。1999年トップの成績で卒業し、ベネトンの関連会社でパタンナーとして働くこととなる。
イタリアの鞄業界では、デザイナーはスタイリストと言われて使い捨て的な扱いだった。その反面、パタンナーはモデラーとして実際の試作を製作して、デザイナーのアイデアを現実のモノに完成させて行く立場だった。その職能は伝統的にリスペクトされ企業の中では優遇された職能だった。彼がまさに目指していた環境だった。そこでの経験をもとに自身のブランドを立ち上げるために2001年暮れに帰国する。
一旦、印南の事務所に籍をおいて、郊外の農家の離れ小屋を工房にして活動を始める。家具のOEMの仕事や、ランドセル会社の仕事を受けながらも、この時期はまだ建築設計の仕事を並行してやっていた。印南の事務所では、GK時代のプロジェクト同様に都市計画の調査仕事や環境デザインプロジェクトが多かったが、図面を描くことは苦ではなかったため、多くの仕事をこなしていた。そしてソウルでChoi Wook主宰していた建築事務所 (現one o one architects )に、印南と共に加わってHeyri Art Valleyのプロジェクトなどに携わっていたが、次第に鞄の仕事が中心となっていた。

2004年、東京都が台東区に、若者向けものづくり創業支援施設(台東デザイナーズヴィレッジ )を設立する計画が立ち上がり、その募集が始まった。1928年築の古い廃校の小学校をリノベーションした施設だった。台東区は東京の中でも伝統的にものづくり工場が集積する地域だったが、職人の高齢化問題が浮上していた。その危機を救うために、ものづくりを目指す若者を育てる待望の施設だった。教室を区画してデザイン、製作工房を目指す多くの若者が入居した。村上はその1期生として小さなスペースを借りることができた。
郊外の小さな小屋から、都市中心部に移り、多くの職人たちと顔を合わせながら仕事ができる絶好の環境が整ったのだった。同期には現在業界でトップランナーとなった雑貨デザイナーのSyuRoの宇南山加子Masuko Unayamaらがいた。彼らの後を追うように多くの若手デザイナーがこのヴィレッジで起業し巣立って行った。村上はここで3年間多くの地元企業や職人たちに出会い、台東区の蔵前に新たな工房兼店舗を構えることとなった。
ここで彼は新しい製品を生むことになる。今やm+の定番となった革財布millefoglie(ミッレフォーリエ)だ。まるで建築設計の調査分析、スタディモデル検討を繰り返すような日々から生まれたこの財布には、様々な使用シーンを想定した機能を組み込んだだけでなく、モノとしての価値を成長させるために美しくエイジングするイタリア製の革ブッテーロを使用している。イタリア・トスカーナ地方のタンナー(革鞣し職人)が植物性のタンニンで鞣す高価な革だ。ステアという成牛のショルダー部分の硬い部分を使用しているため1頭の牛からは少量しか取れない貴重な革だ。使用者の手脂で異なる美しい艶が出てくるハリとコシがしっかりしている革だ。彼がイタリアで働いていた時に出会った革だった。素材との出会いがこの財布の魅力と価値を生むこととなった。そしてエイジング(経年変化)というメッセージはm+の商品のコンセプトとなった。
一般的に、モノを作って売るというのは、製品ができて、値段を決めて、お客さんがそれで納得して購入し長く使ってもらう。そんな潔い仕事が彼の憧れだった。個人のオーダーに合わせた仕事は基本的には受けない。販売したものの修理は行うがカスタマイズはしない。彼のものづくりの姿勢は、スタンダードな道具をデザインして、自分が納得できるモノを世に出すことだった。既にmillefoglieは商品として独り立ちしている。この革財布を街で目にすることが不思議ではなくなった。彼の手から離れたところでm+を支えているのだ。

2011年3月11日午後2時46分東日本を襲った大きな地球規模のエネルギーは彼の故郷・大船渡市の風景、記憶を消し去ってしまった。運良く東京に居た父親とふたり車に飛び乗って500km離れた故郷の自宅に向かった。日本のある詩人が「ふるさとは遠きにありて思うもの」と詠んでいたが、このような災害が起きた時、遠くに身をおいて想像するだけの自身の無能さに気づく。
幸にも高台にあった自宅は海岸線から離れていたために無事だった。しかし面前の海の景色は一変していた。街は消失していた。自分の記憶を消されたような、そんな気だるさの中で立ち尽くした。その後の彼のモノづくりに対する姿勢が徐々に変化して行った。つくることへの実感を、自分の身体を酷使することに向けられるようになった。毎週のように早朝から海に出て船に乗って釣り漁に出るようになった。それは生きているという実感を感じようとしているのかもしれない。
最近、彼は東京から遠く離れた海を望む三浦半島に小さな土地を購入した。そこにセルフビルドで家を建て始めたのである。設計はプロではあるが、施工はズブの素人。小さなモノづくりとは話が違う。しかし彼は、クレーンや土木工作機械の操作資格も取って、敷地の整地や基礎工事なども全て単独で行い始めたのである。手伝いたいと声をかけてくる友人や知り合いからのオファーを全て断っている。その時の返答は、「自分ひとりでやりたいから、私の楽しみを奪わないで」と。いつ完成するかは、彼にもわからない。いや、楽しみを伸ばそうとしているのかもしれない。今は、1週間のうち4日はこの三浦半島で故郷、大船渡の記憶を新しく紡ぎ始めている。

(2020年 DOMUS KOREA 7号掲載)

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