Q. あなたの父・伊丹潤が、もの派で一緒に活動した、石子順造、郭仁植、李禹換、関根伸夫さんたちとの関係について、あなたは父から何か聞かされたことはありましたか。あなたの人生の分岐点(大学、留学)を決めるときに芸術家が師となり、芸術を起点とした父が辿った考え方から何か助言はありましたか。
A. 郭仁植(クァク・インシク)先生や関根伸夫先生とは、子どもの頃によくお会いしていました。一緒に旅行もしていました。何かの話題について、楽しく、時には真剣に話をされていたお姿が強く印象に残っています。まるで家族のような雰囲気でした。郭仁植先生は伊丹潤にとって「精神面での父親」のような存在だと言えます。「郭仁植先生がいらっしゃらなかったら、今の李禹換(イ・ウファン)も伊丹潤もいなかった」とよく話していました。それほど郭仁植先生は、伊丹潤が精神的・思想的な哲学の根幹を形成していくなかで、師匠のような役割をされた方です。
私が建築の勉強をしにニューヨークに行くと言い出したとき、父は毎日を戦うかのように生き、一瞬たりとも自分を鍛えることを怠らない人だったので、そのような生き方を貫く覚悟がなければ建築家を目指すのはよしなさいと言いました。
これから建築がどのような道をたどるかは分からないが、はっきりと言えることは、自分自身を磨き上げ、内実を高め、流行やトレンドなどの情報に流されてはいけないということだと。そして、建築家の村野藤吾氏の言葉の「歴史の上に立て」、と言いました。
Q. 孤高の建築家と呼ばれた父・伊丹潤が唯一交流できた同時代の建築家たち、安藤忠雄、毛綱毅曠、石井和紘、内田繁、象設計集団らと交流されていた記憶はありますか。家族として傍観者としての記憶で結構です。
A. 活発な交流はなかったと思います。父は、確固たる世界感をもつ建築家やデザイナーに対する敬意をいつも言葉で表現していました。
父と一緒にそういった方々の作品を観に行くと、父は、建築家のデザインの意図を読み取ろうと細心の注意を払い、私によく感想を語ってくれました。
Q. 師と仰ぐ白井晟一さんとの交流についてお聞きします。縄文的、古墳的、韓国の古墳群の風景を見るような「縄文的なるもの」の始源に向かう思考は、白井先生からの影響はあるのでしょうか。また、建築家としての出発点(芸術・哲学)と日本の近代建築の潮流とは異なった作風が強調され、近代の建築を共有する一人の日本人建築家として論じられることがあまりなかったことも、白井先生と同じ境遇に感じるのは私だけでしょうか。
A. 白井晟一先生からは、廃墟とも取れるような建築を目指すように言われたと聞きました。その言葉が父の初期の作品活動にかなりの影響を及ぼしたのは確かだと思います。
Q. 伊丹潤の建築作品についてお聞きします。建築と芸術に対するスタンス、商業空間と住宅空間に対する考え方、地域のコンテクストの読み方、主義やイデオロギーではなく、自由な立場からの建築の可能性を求めた建築家としての伊丹潤の建築について、あなたが理解できることを教えてください。
A. その地域のコンテクストを読み取り、自分ならではの自由な思想を溶け込ませ、自らが創り出す建物が大地の一部になるようにすることを追求していました。大地を圧倒する建物ではなく、大地を愛し、尊重の念を持ち、謙虚な姿勢で作業に臨んでいました。
伊丹潤の建築美学にはこのように「地域性」というものがあり、建物が建つ場所の自然風土と伝統を生かした独創性があります。
建築家伊丹潤は、東洋のみが表現できる美学や、特定の地域に根差しているもののすべての人が共有できる伊丹潤流の美学を構築していくために戦った建築家でした。
コンピュータに支配された現代社会でつくられる今日の建築は、デザインのユニークさだけに集中してしまい、温もりが消えて感動を失いつつあると、残念がっていました。
伝統と現代をテーマにその地域に根を下ろすという建築の考え方が、コンピュータによる強いコンセプトや派手なデザインに押され、精神文化の荒廃につながらないようにと願っていました。
Q. 骨董品や古い材料に対する彼の思いを説明できる何か生活での逸話や記憶はありますか。
A. 筋金入りのコレクターだった父は、手元に現金ができたら、それがどれくらいの金額であれ、決まって骨董品を買うのに使っていました。父の骨董品への愛情はそれほど大きいものでした。
なかでも民画と陶磁器については、コレクターぶりを存分に発揮し、それらを自分の師匠だと褒め称えていました。一人でお酒を飲むときは、必ず陶器について思索・探求していました。乳白色の陶磁器から感じられるやさしさや、手で触ると吸い付くような質感、その温もりと自然の美を建築で表現したがっていました。
丸壷のような建築、都市と自然が共存する建築、手と体の温もりが籠った建築。その地域の特性と材料が調和した建築を目指していました。
Q. 晩年、生まれ故郷の清水市に対して何か郷愁のようなものをお持ちでしたか。
A. 故郷の思い出の品は持っていなかったと思います。ただ、画家としての父は、いつも海を描いていました。つらいときも楽しいときも、清水の海に行っていたと話していました。そんな幼い頃の記憶があり、故郷に対する郷愁を表現していたのだと思います。
Q. 韓国の住宅の原点である、マダンやサランバンという概念について、彼は日本の中でどのように昇華していたのでしょうか。
A. 日本にある父の自宅には、庭に1坪の広さの書斎があります。父は、ここを「サランバン」と呼んでいました。そこは、父だけの思索の空間であり、作業の空間でした。誰かを招き入れられるような広さではありませんでしたが、父だけの思惟の空間としての機能は十分に果たしていました。
Q. 歴史を見ていると、名を遺したその人物がいなかったとしても、同じような歴史的役割を果たす人物が別に登場していたに違いありません。少なくとも社会や時代との関連性を抜いては、歴史的な個人についての価値や理解は客観性を失ってしまいます。異端や孤高の芸術家というような言葉で特殊化されてきた建築家・伊丹潤を生んだ時代と社会が、その後の検証、分析を怠っているように思います。わたしは、近代建築の潮流として、村野藤吾→白井晟一→伊丹潤という系譜を位置付けたいのですが、あなたの意見をお聞かせください。
A. 父が尊敬すると言っていた数少ない建築家のお二人と同じ系譜に連なることができるとしたら、父は、「この上ない光栄」と思うはずです。
(2019年 DOMUS KOREA 4号掲載)
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