LOG・ONOMCHI
Studio Mumbai
瀬戸内海の海運の要所として古代11世紀ごろから栄えてきた港町・尾道。近世18世紀に入ると、朝鮮通信使来航の寄港地としてそれまでの要所であった鞆の浦(TOMONOURA)から港湾拠点として取って代わり現在まで栄えてきた町である。その町に、インドの建築職人集団、ビジョイ・ジェイン(Bijoy Jain)氏が率いるスタジオ・ムンバイが手がけたリノベーションプロジェクトがこのほど完成した。LOG(Lantern Onomichi Garden)。彼らにとって初めての海外プロジェクトである。尾道の旧市街の山肌の中腹に、1963年に建てられたRC造の近代建築アパートを生まれ変わらせ、町に新たなあかりを灯したのである。わずか6室のホテルと建物のほとんどがパブリックスペースとして多くの人が訪れることができる施設となっている。尾道の町を再生するために立ち上がったまちづくり企業・ディスカバリンクせとうちが、廃墟寸前となっていたこの建物を手に入れ再生を進めたのだった。
◉新道アパート(SHINDO APARTMENT)
LOGの建っている敷地は、大正時代の初期約100年前、この尾道で乾物商で財を成した豪商・天野春吉(AMANO HARUKICHI)が建てた別荘の敷地である。彼はこの敷地のある山から切り出された石で高さ15m長さ40mの巨大な石垣を築いた。その高台に茶園と共に別荘を建てたのである。同時に港から別荘までの道も新たに築いた。それはこの山の山頂にある千光寺と呼ばれる町の象徴でもあるお寺への新たな参道でもあった。その50年後、造船景気に沸く尾道の労働人口の増加を見越して、この場所にRC造の近代的な3階建てアパートを建設したのである。造船所の社宅として、その後は市民のアパートとして機能することとなる。その際参道は工事車両の入り口として建設に利用された。1963年にアパートが完成すると、その工事用道路は元の石畳の参道として再生し、尾道市に寄付され千光寺への新たな参道となり、新しい道の傍に建つアパートは新道アパートと命名された。このアパートは、古い瓦屋根の家が連なる旧市街にはひときわ異質な陸屋根の近代建築だった。当時の尾道市民にとっては景観としては批判の対象ではあったが、東京オリンピック開催前年当時の人々たちが抱く近代生活への憧れの方が優っていた。このアパートに住むことは周りからの羨望と夢の近代生活が体現できるものであった。そうしてパリのエッフェル塔のように、最初は異物のような批判の対象だったものが歴史を経て、町の象徴として市民に認められ誇りとなった。
◉文学・映画の町・尾道
ビジョイ氏は、このプロジェクトのオファーがあった以前の12〜3年前からここ尾道を何度か訪れていた。それは彼が敬愛する映画監督小津安二郎(OZU YASUJIRO)の映画「東京物語」(TOKYO MONOGATARI)の舞台だったことと、日本の小説の神様と呼ばれた白樺派の小説家・志賀直哉が100年前に東京から移り住んで、高台の長屋の窓から見える尾道の街の情景の記憶を描いた小説「暗夜行路」(ANYAKOURO)を書き始めた町だったからである。それら小説や映画を通して日本の生活、文化に興味を抱いていたのである。その大作「暗夜行路」が完結したのは1912年に志賀が書き始めて25年後の1937年だった。LOGのプロジェクトの敷地は、志賀が暮らしていた長屋に隣接している。100年前わずか4ヶ月ほどの尾道での生活の間、彼が小説を書きながら日々尾道の風景を眺めていた頃、その隣接する場所に天野春吉は別荘を建設していた。湾の対岸に浮かぶ向島に広がる塩田と山の石切場で働く石工の掛け声、歌声が風に乗って伝わって来ていた。志賀はその情景を簡潔に無駄なく美しく文学表現として描いている。当時の文学者、川端康成や芥川龍之介、夏目漱石らは皆そのストイックな志賀の美意識をリスペクトしていた。その50年後に小津が描いた映画の映像もこの山の中腹からの眺めの風景だった。それは新道アパートがまさに建設されようとしていた時期に重なっている。志賀の文学が映像化されたとも言える出来事であった。このアパートが完成した1963年に小津は亡くなった。そして今、このプロジェクトがスタジオ・ムンバイにオファーされたことは、ビジョイにとってはまさに運命だった。
◉プリミティブな空間を築き上げた協働者たち
古代から海運のフィールドであった瀬戸内海は、今や日本の文化の醸成された場所でもある。その中でも尾道が進める地域資源の再生、継承、持続の活動は、「ディスカバリンクせとうち」や、「尾道空き家再生プロジェクト」など市民が一体となったキューレーション活動でもある。建築家、デザイナー、アーティストと市民が町を繋ぎ、未来に貢献していく活動でもある。そのキューレーションの目にとまったのがスタジオ・ムンバイの建築姿勢だったのである。今回ビジョイがディレクションした協働者たちは、空間づくりの素材、色、ディテールに至るまでビジョイの哲学をしっかりと理解し創造していた。インドですでにビジョイが手がけたプロジェクトのクライアントでもあるテキスタイル工房の真木千秋(Maki Chiaki)氏が空間のラグやクッション、スタッフの衣装まで手がけている。空間の色彩は、スタジオ・ムンバイの協働者でもある、イギリス人Dr.Muirne Kate Dineen氏である。彼女は尾道に滞在してこのLOGの空間のために114色ものカラーチャートを製作して自然の顔料と土の漆喰で空間を作り上げていった。そして客室は京都綾部の和紙職人・ハタノワタル(Hatano Wataru)氏が手すき和紙でコーティングしている。障子から透ける光の陰翳礼讃、床壁天井の静かな音の反射、そこには繭に包まれたような暖かな空間があった。それらの色と素材が共鳴しあって、50年後100年後のエイジングされた空間へと引き継がれていくのである。レストランで出される料理は料理研究家の細川亜衣(Hosokawa Ai)氏のディレクションで地元食材を使い切る事でゴミを出さない事を念頭に素材の色をテーマに出されている。食器を担当しているのは彼女の夫・細川護光(Hosokawa Morimitsu)氏が作り出す朝鮮磁器風の食器で空間の静謐さを助けている。日本の建設現場は特殊である。職人や大工を統率していく現場力が必要となる。そのコンダクトを受け持ったのは、瀬戸内に面する香川県の建築家・六車誠二(Muguruma Seiji)氏だ。彼の現場力が、ビジョイが目指す、人、生き物、環境全てに優しさと配慮、尊厳の念を持ち、人の手と時間をかけて反復することで、その町の文化、資源、価値を見出し、表現するという姿勢をしっかり翻訳していた。長い階段が続き重機や車が入る事ができない、解体のゴミや材料の運搬も全て人の手で行い、敷地内で見つけられ再生できる材料を極力利用していく、そんな協働者たちの汗と創意工夫が結実した建築がLOGなのである。100年前に志賀直哉が描いた簡潔で無駄のない風景が新たな「尾道物語」となった。
DISCOVERLINK SETOUCHI
海を通じて日本各地や世界と繋がってきた歴史のある瀬戸内海は、人や文化を繋ぐ役割がある。そんな目的で2012年に生まれた町おこし企業だ。町の人たちが残したいと考える風景や建物や人の関わりを守り、事業化して次の世代に継承していくことを目指している。広島県の尾道・鞆の浦周辺で建築やデザインの力で産業を活性化し雇用を創出し街を再生していく仕組み作りを行っている。これまで海沿いの倉庫をリノベーションしたサイクリストのための複合施設「ONOMICHI U2」や、地域をフィールドとした「尾道自由大学」、歴史ある建物を町家ゲストハウスとして蘇らせた「せとうち湊のやど」、尾道の産業資源であるデニムを活性化する「尾道デニムプロジェクト」などを展開している。「新道アパートの再生・LOG」のプロジェクトをスタジオ・ムンバイと手がけ昨年2018年12月にオープンした。最近では新しい尾道駅の主要テナント事業を展開している。
STUDIO MUNBAI
インドを代表する建築家ビジョイ・ジェインが率いる建築集団。敷地の造成から設計、施工までを住み込みで働く職人たち120人と一緒に行う独特のスタイルだ。自然素材や伝統技術、地域の資源を大切にして、建築家と熟練の職人たち人の手のエネルギー、創意工夫が彼らのモットーだ。
BIJOY JAIN
1965年インド・ムンバイ生まれ。1990年ワシントン大学で修士号取得。89年からロサンジェルスとロンドンで実務経験を積み、1995年帰国。ムンバイに「スタジオ・ムンバイ・アーキテクツ」を設立。2009年フランス建築家協会のサスティナブル建築賞、香港デザインセンターのアジア・デザイン賞受賞。2010年第12回ヴェネチアビエンナーレにて「ワーク・プレイス」で特別賞受賞。
(2019年 DOMUS KOREA 2号掲載)
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